野木青依(のぎ あおい、マリンバ即興演奏)

今回のあらすじ

音楽映像作品「にいはまの音×マリンバマリンバネリネリ in にいはま』|野木青依 Aoi Nogi」の 8'17" ~ 8'31" の、鉄屑の火花のカットを見て、全てを悟った。

 

音を発するポイント、聴くポイントが、空間内・環境内で移動することによる、音場や位相の変化、時間的連続変化の美しさ、これを作曲のパラメータのひとつとして処理する可能性、については当ブログで度々書いた。

移動パン屋さんの音楽が、異界からこの町内にフェイド・インして来て、周囲の建物に反響して一気に世界を現出する。

街中の、ノイズの多いスピーカや換気扇の排出口の前を歩いて通過する時、フェイズシフトが起きる。

 

音楽と環境音とがお互いの成立を妨げない。

野木青依氏の、瞬間瞬間に生まれる造形は、それそのものとして魅力的で、かつ、環境と共存する。

 

私の曲は、作品として独立してあって、環境音と対立しこれをノイズとして排除する。端的に、私の曲が鳴ってる時に音を立てる者がいたら、怒る。

 

「音楽と環境音とが共にある」という場合、

「楽器によらない音が、音楽に取り込まれて、楽器の音と平等に扱われてる」

というケースもある。でも、「作曲の作為・演奏の作為への「うしろめたさ」が根底にあり、自然の音のありように憧れる」私は、逆に、

「作為が作為のままで在りつつ、広大な音の世界の一員であることを許されてる」

というケースに出会うと、救われる。

 

ひとつに括って「環境音」と呼ぶことが粗雑だ。個々に発せられる音が重なってる。というか個々の音とその総体としての環境音との間には、野木氏の音楽と環境音との間に生じてるのと同じ関係が生じてる。

野木氏は自らが音の世界の一員であることに自覚的だ、ということになるのかな。

 

8'17"~ 8'31"、鉄屑の火花が飛び散るカットが、野木氏のマリンバの音とともに置かれる。

線香花火みたい。鉄屑が一瞬のあいだ輝く、というだけで既に奇跡的に美しい。個々の火花がそれぞれのタイミング、それぞれの角度で飛び出す。全体の流れとして見え、火花の数が増減して流れの勢いが変わる。

音と絵とがあまりに呼応してて、微笑んでしまった。このカットが、野木氏の音楽が目指すところを象徴してるとすら見えた。

 

鉄を削る作業は、火花を生むことを目的にしてない。だからこの火花は美しい。

蝉時雨とか、複数のヤギの首に着けられたベル*1の音とか、波の音とかは、自然の営みの「結果物」「副産物」であって「目的」じゃない。

ツクツクボウシだけが自然ではない。鉄屑の火花たちも、物理法則に沿う無心の振舞いにおいて自然だ。街の物音たちもこれだし、私の曲も、全部を私の作為がコントロールしてるつもりになってるけど、根っこではこれであることから逃れられない。

 

関連記事:

*1:ヤギだからカウベルじゃないよね? 何と呼べばいいのか?