「音楽評論家」を自称なさる方で「音楽を評論」なさってる方って、どのくらいいらっしゃるんだろう?
みうらじゅん『What's Michael Tomioka?』の中で、ステージで演奏するレッド・ツベルクリンに、VIP席で、福田一郎という人物が
「日本のロックの夜明けだ!」
と讃嘆してる、というコマがあった。
これが、私が福田一郎という名前を認識した最初で、私の福田一郎についての知識のほぼ全てだ。
彼のやったことはどうやら、ニューヨークのシーンで起きていることを、現地にいて逸早く察知して、日本に紹介する、ということだったようだ。「音楽評論家」の草分けとして最大限評価されねばならないんだと思う。
ただ、「NY では今これがウケてる」であって、「音楽に即して」ここが優れてるとか新しいとか論ずるのではない。「優れてるからウケてる」ではなく「ウケてるから優れてる」になってたように見受ける。そこに「音楽評論」は無い。
1980年代の、阿木譲、岩谷宏、北村昌士は、自前の思想を一人語りするために、音楽をダシに使う。アーティストの意図からも、実際に鳴ってる音の出来事からも乖離してる。
この虚仮威しを読者は当時、ツッコミ入れつつ楽しんでたのか、あるいはそうしつつも半ば真に受けてたのか。
David Bowie "Low" の、実家にあったアナログ盤のライナー・ノーツは岩谷宏だった。
私が買った CD では、誰の執筆か憶えてないけど、リリースの経緯とかの周辺事情が、情報としては正確に客観的に、解説されてた。でも、文章自体の個性的魅力は無くなってた。
ライナー・ノーツは、正確さを要求される「データ」なのか、ライターの「表現」なのか。どちらにせよ「音楽に即して」論ずることは、むしろ意図的に避けられてるとすら思える。
クラシック評論においてすら「音楽に、意味の厳密でない形容詞を見繕って来て併置する」のが罷り通るのを目にする。
印象批評なら印象批評で良い。「私」の主観から始めることは正しい。それを曖昧さや誤魔化しの言い訳にしないならば。
昔ラジオで黒田恭一がテノール歌手の聴き較べをやってて、ジュゼッペ・ディ・ステファノのスタイルを「抒情的」としか形容しないのを聴いた。「細部やニュアンスを作り込む」とか「引くところでは引く」とか、もっとディ・ステファノのスタイルを具体的に言い当てるニッポンゴはあるだろう。それを見つける手間を惜しんで何が評論なのか。
ちなみにこの聴き較べでは、マリオ・デル・モナコが耐えられなかった。のべつマックスの声量を誇ってれば OK 的な。テノール馬鹿とはこのことかと思った。
ある時 HMV 渋谷のクラシックのフロアに行くと、折悪しくデル・モナコのボックスがリリースされたところだった。プロモーションで店内でずっと掛かってた。どうせ何を歌ってもべったり全部同じ、ただ声を張り上げるだけのデル・モナコをたて続けに聴かされて、居たたまれず逃げ出したのだった。
私の知る範囲で、最も音楽に即して評論なさるのは、Chihiro S. 氏。氏のライナー・ノーツは、ミュージシャン目線(作曲家目線、プレイヤー目線)で、タームがいちいち具体的音楽的に腑に落ちる。
Chihiro S. 氏にだけ「氏」を付ける私。