後天性プログレ者

私の音楽への愛は、音楽への違和感が基礎になってる。

身の周りに当たり前に音楽がある環境ではなかった。

 

コミュニティの音楽があって、物心つくと楽器を手にしてて、

言葉を覚えるようにして音楽が身についてる、

酒宴があれば自然にセッションが始まる、

そういう環境でお育ちになった方にとっては、

音楽は、問うまでもなく、あって当たり前、愛して当たり前、価値があって当たり前。

感動して当たり前。

 

私にとって、感動して当たり前な事態とは。

他人に思いがけず親切にされるとか、

目指すもののために努力してた人が甲斐あって成功するのを見るとか、

ねこがなつくとか。

「作品」を鑑賞して、ということでいっても、小説や演劇に感動するのは判る。

 

音楽は私にとってよそよそしいものだった。

音の重なりと連なりに感動する、ということが、きょとん*1だったし、

滑稽なこと、

むしろ罰当たりなこと「やっちゃいけないこと」に思えた。

 

いっぱんに、記憶というのは、当時の自分の感覚や考えに即してるというより、今時点での評価だし、今後も編集され続ける。

とっ散らかった記憶の破片の中から、私は音楽を愛してきた、という線でエピソードを拾ってきて物語を仕立てることも出来るし、ずっと懐疑的だったという線でそれをやることも出来る。

 

ではあるけど基本、私にとって「音楽で感動する」ということは、アプリオリではなく、

感動できるはずのないものに何故か感動してしまうことへの感動

だった。 

これと、音楽を音楽それ自体として尊ぶ、音楽の純粋・自律を以て貴いとする私の姿勢とは、一如だし、「だからこそ」なのだ。飛躍と映るかも知れないけど。

むろんたとえば「劇伴だから純音楽より劣る」のではない。音楽が「メッセージを乗っけて運ぶ道具」に堕してさえいなければ。

 

昔書いたことと同じになってしまった:

*1:「お口ポカン」と言い表そうとしたら、これは幼児の「口呼吸」のことだった。