入院するとは日常に戻ることを始めること

普段通りの通院で2時間で帰宅のつもりが、重積発作と診断され、医院から直で救急病院に移され、そのまま8日間の入院になった。自覚症状は全然大したことないのに大袈裟。

日常が、やりかけのまま、突然中断した。

 

面白かったのは、夢。

入院3日目まで、全ての夢が「ツイッターの夢」だった。夢の画角いっぱいにツイッターの TL が正立してる絵。ツイートしてる自室内の風景も無く、自分の姿も無く、TL だけが見えている。

入院中、戻り先として憧れ夢に現れる「日常世間」が、「ツイートする私を含む現実世界」ではなく「TL の中」、とでもいうように。

「世間の中でツイートする」ではなく「TL が世間」。じっさい元の生活を振り返るに、ほぼほぼ「ツイッター=世間」だったと気付く。

見えてるツイートは毎回「引用 RT」で、元ツイをクリックしたりメンションを辿ったりツイ主のホームに行ったりして、ツイートの意図を正しく読み取ろうとする、というパターンで一貫してた。

 

3日目にようやく、ロケーションがあり登場人物がいる夢を見始めた。

タイミングとして、PC にアクセス出来ない喪失感焦燥感「とにかく日常に戻りたい」モードから、「このままネットに接続せずに余生を送るのも案外平気だしなんなら積極的に自然で清々しい」モードに移行するのと軌を一にしてた。

いくつかメモった夢の中から、ひとつ:

 

入院費用に充てるために、実家の和室(実在を思い当たらない室内風景)から、10万円が(他のこまごました品物と一緒に)入ってるはずの大き目の段ボール箱を抱え出す。札だけ抜き取って来ればいいのに、箱ごとの方が手っ取り早いという判断? 途上、上り坂の道路敷設現場を登る。足元が掘り返されてごつごつと険しく、アフガニスタン人労働者でごった返す。コンクリートの側壁を隔てた側道(ここにもアフガン人たち)が、壁の割れ目から見える。そっちのが歩きやすいかも、と割れ目から乗り出して行く手を見上げると、頂上に繋がってるか、怪しい(最後のところで越えられない段差があるっぽい)。足場の悪さと登りのきつさで運べないようなら箱を実家に戻しお金だけ持って行こうかと考え始める。割れ目から箱だけ突き出してたのを戻すとき、側道にいったん下ろす。そこは(いつの間にか側道ではなく)辛うじて箱1個置けるほどの土の出っ張り(不定形)。もし手を滑らせたら数10メートル下の地面に落ちる。箱を本道に戻し上蓋を開けると、ごたごたと品物が入った上に載せて取りやすい位置にある筈の壱萬円札×10が無い。ようやく右端に「給付金」と書かれた封筒を見つける。中身は10万円の筈だからちょうど良い。封のままポケットへ。同じ位置にもうひとつの封筒、「智子用」と書かれてる(他に小さな字で給付を祝う文言)。「あ、こっちか」その場で別の何か給付金的なものの説明が始まる。日本銀行券ではなく青と紫の2色刷だが額面二千二百円で現金と同様に使える。私は「智子用」の封筒から中身を取り出し枚数を数える。右手に持って左手で1枚ずつ除ける慎重な数え方をしたのにつっかえて9枚しか確認できない。左手に持って右手親指でパラパラと数えるやり方に変更するも余計上手くゆかない。これもペラペラで小ぶりの2色刷だが額面が一万円なので周囲のみんなが驚く。「あーこれは給付金の方のか」さいご見た時額面が千円だった気もするが、夢の中では×10=10万円で納得してた。

夢 2020年05月29日

暗号メッセージが(ツイッターか何かで)出回る。日本国内に分散して住む、とある民族ないしコミュニティ向けのもの。私自身は内部の者ではなく、日本人の賛同者で、内容(カンパの指示)を読み解くことが出来る。ATM で所持金=全財産の5万円のうちの2万円を振込む操作をする。最後のエンター操作で「振込み」なのか「引出し」なのか決まる(5つくらいあるボタンの中から選択して押す)。途中何段階かの数値入力は滞りなく進むが、最後のエンターでボタンを間違え、スパイス入りのコーヒーがドボドボと出て来る。下で受けるカップの位置がややずれててちょっと零れる。慌ててカップを直接手で持って調整する。零れる量を最小限に食い止めてやったぜ、と思ったが、カップの容量を超える量のコーヒーが出て来て、けっきょく大量に溢れる。「相手に送るためだからスパイスを吟味した。自分で飲むためにお金を使ったり気配りをしたりする気は無かったのに…」ぬるく、薄く、不味い。

 

「民族ないしコミュニティ」…アラブという設定だった気がするが、世界に分散して暮らしてるけどネットワークが強固、という点が、クルド的。

いつもは夢の中の入力操作で、何度やっても数値をタイポって先の段階に進めないのだが、今日はそこはスムーズで、最後に決定的に間違えた。

いしむらなおがひとりぼっちでぼうけんする演劇『塗る』『五月二十四日』 #いしむらなおのぼうけん

https://www.youtube.com/watch?v=lydDeJl9zQc

 

私が最後に演劇を「生で」観たのはもう何年も前。

いま演劇が不可能になってる、演劇が演劇でいられない、という状況が私に本当にはピンと来ないのは、ひきこもりの私にとって演劇はもともとメディアを通して観るものだったから。私が観ていたのは、演劇そのものではなく、その「情報」に過ぎない、のだろう。

 

今回拝見した いしむらなお氏の『塗る』『五月二十四日』は YouTube での配信で、観客から役者へ反応を送る方法はチャットしかない。

もしも、もっと濃密で反応の速い相互行為のツールがあれば演劇が再生するのか?あるいはやはり生身の人間どうしが空間を共有するのでなければ演劇ではないのか?

 

まして私は今回アーカイヴで拝見した。でも感動した。ぼろぼろに泣けた。

泣けた理由は自分でも判らない。一日たった今も、考えを整理できない、言語化出来ないけど、とにかく言葉がこんなにも生き物なのだ、ということに、押し寄せられ、打ちのめされた。

生で観、反応を返し、「場」を成立させることに観客の私も参画するのが本来で、配信はその代替物…という感想を私が抱き得ないのは、前述の理由もあるけどそれよりももっと、現にこんなに感動したから。

 

「芝居にバイバイ」と、それを芝居として演じることとの関係がスリリングだった。

 

すみません。ここまでしか言葉に出来ませんが、取り急ぎ。