『海洋地形学の物語』

ある時、脳内で、'The Ancient' の 0'45" 目~、スティールギターのメロが回想されました。

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そして気づきました。これ、'Ritual' の13'11" 目~と同じメロじゃないか!

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この気付きが、この記事 

shinkai6501.hatenablog.com

を書いた動機です。

アルバム『海洋地形学の物語』の特質が「モティーフ音形がいくつか設定されて、各々4曲を跨いで繰返し現れること」なのを理解していた筈なのに、上述の箇所がその一例であることを見逃していた、迂闊を口惜しがってのことです。

 

でもこの過去記事は、そういうモティーフの列挙を、文章メインでだらだらやってるので、判りづらいし、一例一例を音源に当たって検証して下さる読者はごく稀だろう、との懸念から、今回、執筆のきっかけを紹介し、モティーフ処理の例示としたものです。

 

『海洋地形学の物語』は、冗長といわれるし、聴感上は確かにそうなんですが、じつはコンポジション上の「意味」が詰まってる。

このアルバム(と、『リレイヤー』)の世間での評価が不当に低いことに胸を痛めます。私の記事は、このアルバムこんなに楽しいんだぜアピールを企図していますが、却ってしちめんどくさがられて、布教には逆効果かも知れません。「そういうとこだぞ」という。

コーネルに端を発するやりとり

アメブロでジャックさんが私のコーネルについての記事を御ブログでお取り上げ下さり、やりとりがありました。

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御記事に差し上げた私からのコメントを、適宜添削しながら、以下。

 

造形一般に、オリジナルとは何かを突き詰めると「引用と編集」に還元される、でもだからといって誰にでも出来るのではない、みたいな。

そこを見せてくれるのが生花でありコーネルなのでしょうか。

絵という形を当たり前のものと思ってしまってますが、長方形の画面を持つ「絵」も、じつは「箱」なんじゃないか。

音楽でいうと、アサンブラージュからまず連想するのは磁気テープ録音なりディジタルサンプリングなりですが、一般に音楽はアサンブラージュなのか。「曲」という形に収めること自体が箱に閉じ込めることなのでしょうか。曲ではない音楽というのもあり得るのでしょうか。

 

作品は作品として完結しながら、「野良」の状態に憧れることを忘れない。

作曲するとは「世界は、自然も街も、こんなに聴くべき音楽に溢れてるのに、そこにもうひとつ作品を付け足すことに意義があるのか?」と悩むことです。

自然や街の音楽は始まりも終わりも無い、聴き手の聴き始めと聴き終わりがある。作ることではなく聴くことが始まりと終わりを決める。つまりはやはり「作品」「曲」であることからは逃れられないですね…

 

以上が差し上げたコメントです。

 

 

自然の物音(とか、都市の物音とか)は、始まりも終わりも無い永遠のドローン、と一旦は思う。

でもその「永遠の音楽」の聴き手は、いったい誰なんだ?

 

「散歩される音楽」というのを考えてみる。

遊歩道で、川がせせらぎ続け、歩みを進めるにつれ、その音が茂みの陰から漏れてきたり不意に足下にあったり、梢が戦ぐタイミングにちょうど居合わせたり居合わせなかったり、鳥がいろんな定位いろんなパースで間欠的に囀ったり。

そして散歩者はいつどこからそのコースに入っていつどこからそのコースを逸れてもよい、というような。

 

でも、音楽と規定する以上はヒトの範疇のものだ。自然の物音それ自体が音楽なのではなく、それを聴く者がいてそれが音楽になる。

コースに入る=音楽が開始する、コースを逸れる=音楽が終わる、なのであって、つまり始まりと終わりを「作曲者」ではなく「聴き手」が決めてる、というだけで、やはり始まりと終わりがあること、「曲」であること、からは逃れられないのだった。

気になる御ツイート

一昨日の、とある御ツイートがずっと気になってる。ご自身のお撮りになったお写真の画像。「見る」ことについての短い文は、詩そのもの。

 

画像は、全体がひとつの完全な闇、と思うと、辛うじて視認できるほど仄白く、水平鉛直の直線を含む構造、その一部にうっすらと青と褐色が錆びた質感を置く。

何をお撮りになったものか? 真っ暗な室内? 構造は、長押と壁面? サッシの中桟と縦框? 画角左下で、全体の完全な闇に、青みがかった闇の域が隣り合ってる。2つの闇を区切る線は、半ば開いたカーテンの縁だろうか? 室内の闇から、外界の闇が覗いてる。

カメラが闇から色を検出してるのか?それとも、カメラは、感光のスレッショルド間際をいずれかの色に置き換えねばならない、たまたまの発色だろうか?

暗闇にカメラを向けてみるという思い付きがそもそも面白い。結果を予測できないというか、肉眼との差が大きい写真ならではの世界が見えそう。

 

併置された文との関係は? 何を「見たくて見て」、「いつの間にか見せつけられている」のか? 画像は、ご覧になったものをどのくらい忠実に翻訳してるのか?

そこにはまず何か思案なさってることがあって、それがことさらに「見る」ということをさせているのか?

 

謎は、そのままにしたい気持ち。デリケートなものを、詮索が壊しそう。

 

なにしろ絵として、質感が美しい。だから印象に残った。油彩画のようにも見える。新制作展に出品されてそう。