同じ人が2人いる (フィクションです。)

バンドの面白さのひとつは「差異」。

Pete Townshend と Roger Daltrey、Mick Jagger と Keith Richards みたいに、複数のメンバーが、キャラや担当パートの役割分担をしたり、音楽的指向において差があったりときに対立したりしつつ、ひとつに組んで、バンドとしてのアウトプットを実現すること。

緊張を孕んでスリリングな面白さがあったり、化学反応で足し算以上の結果を生んだり。

 

ぎゃくに「同じ人が2人いる」みたいなコンビに面白さがある場合もあるだろうか? Godley & Creme があるいはそれかな?

 

うちは、音楽的指向が近いし、担当はともにキーボードだし、まさに実際に「同じ人が2人いるみたい」と言われたことがある。

身長もほぼ同じ。但し、頭部:胴体:脚の比率が違う。

ヲタの私と、子どもの頃バレエをやってた相方とでは、動きのキレも違う。蹴り上げる足の高さとか。ターンの、速さとか角度の正確さとか。

その2人が、ステージ上で横に並んで、同じコスチューム、同じ振り付けで、踊る。

コスとフリを同じにすることで、体型と動きの差を浮き彫りにする。

 

指向が共通しパートが同じなことについては、うちの場合、発想が偏る、思いがけない方向に転がりだす開かれたダイナミズムが無い、という弊害が大きい。じゃあそもそもなんで組んだのか。

 

(フィクションです。)

メモ(詩) 3

アメブロのほうでコメント頂いてやり取りする中で気付いたことがある。

 

これの前半の「生涯初めて書いた詩」について。

基本デタラメで書いたのではあるけど、「自分の意思で動いてるつもりで、何か大きな力に動かされてる、であるからこそそこで自分でいられる」という気分では一貫してるかも知れない。

 

後半の「朗読出来ない詩」について。

詩はふつう、言葉をリニアに連ねて、左から右、上から下に読む約束になってる。

私のこれは、「視覚的・グラフィック」であることと、「時間の流れが無い・読む順序が判らない」ことを意図した。

ただ、これを「朗読出来ない」とするよりも、「画面上にちりばめられた語 or 文節 or 句」を、「どんな順序で朗読しても許される」とする方が面白かったかも、とも思う。

 

共作における方法を一般化はできない、と気付いた。

私の場合、相方と私の指向(詩作についての、思想についての)がたまたまおそろしく似通ってるので、スムーズに運ぶぶん、スリリングさが無かった。

指向に差がある、場合によって対立する相手と組んで作る場合は、プロセスの執行自体に危うい緊張を孕んだりして、同じ方法を使っても転がってゆく行方が違ったり、別の方法を考えた方が良かったりするのだろうな、と。

メモ(詩) 2

2人がかりで詩を書く。

場を共有しつつ1行ずつ交互に書き継いでゆくにせよ、ファイルを往復させて「書き継ぎ」だけじゃなく編集の自由度を大きく取るにせよ、問題となるのは「いつが書き終わりか」。

自分の中にアイデアがあってそれを形にするというのではなく、他との間に開かれた、どっちに転がるか予測出来ない状態なので、

書いてるあいだは「書き終わり」「完成」を目指してないはず。

それを、ある時点から、意図的に終わらせる機運に持ってゆくのは、無理な力の掛け方に気を散らすことだし、そうする意義も薄い。

 

むしろ、

「書き継ぎ・編集によって変化してゆくこと自体を本質とする作品」

である方が面白い。

 

完成形を「予想」することも出来ないし、

いつか、これで完成、と思えるまで続ける、というのとも違って、

際限なく、というか「飽きるまで*1」続ける。その変化のプロセス自体が作品の本体である。

 

 

ちなみに、前回のこれ

で、「切り刻んでシャッフルして並べ替える」において、切り刻む単位を「文」にするか「節」にするか「句」にするか「文節」にするか「語」にするか「音節」にするか「音素」にするかによって、出来るものが全く違う。コンテクストをどのレヴェルまで断片化するか。

*1:どちらか一方からの「飽きたのでこれで終わりにしたい」という合図として、

「アーメン」

って書いたりする。