夜ご飯

2020年04月24日にアメブロで、お題「夜ご飯の定番メニュー教えて!」に応えて書いた内容です。

 

「正しい日本語」を言い募る者ほど「正しさ」を論理的に説明できなかったり、自らの「排除」の態度こそが日本語を貧しくすることに気付かなかったりする矛盾と滑稽。

 

「真逆」という語の時と同じ光景。「夜ご飯」についても、ああやっぱり、

「『夜ご飯』じゃない。『晩ご飯』だ」

って言いたがる人がいるんだ。

 

「夜ご飯」は比較的新しく言われだした。それだけ。

 

私自身、古風な響きの「晩ご飯」を好んで敢えて使うけど、他人様に指図するとか、世の中かくあるべしとか、は毛頭無い。

 

日本語がどうあるべきか考えるのは大事*1

言葉が時代とともに変わるのは当然といっても、私が嫌うのは、自らの日本語について無自覚・無責任な故に流されること。

「真逆」「夜ご飯」の是非を論ずることが正しい日本語を考えることじゃない。

 

「正しい」の理由を安易に「慣習」に求めない。

なぜ「がの」「をの」という助詞が無いのか、疑問に思ってみる。だって「君の夢」じゃ your dream なのか a dream of you なのか区別が付かない。「君がの夢」「君をの夢」と言えたら一聴で区別できて便利なのに、「正しい」日本語と認定されない、ということを「不合理」と感じることができるセンスの持ち主であるかどうか。

 

明日「に」期待し、明日「を」展望する。なのに、明日「への」期待、明日「への」展望と言う。

明日「にの」期待、明日「をの」展望と言うことをなぜ日本語は許さないのか。とか。

(「〇〇への△△」という名詞句的言い回しは翻訳文的に響く。歴史が浅いのかも知れない。「〇〇に△△する」という平叙文を名詞句的言い回しに変換する時の手続きを熟させ定着させるのに、性急だったのかも知れない。)

 

もちろん私だって、自分の話す一語一語について、語源を深く理解し語義を厳密に弁えてるわけじゃないけど。

大事なのは、

一方では、それぞれの単語やフレーズの背負ってる歴史をできるだけ深く知ろうとする態度。

他方では、いったん論理学的にとことんまで突き詰めて、コンヴェンションを排除してみること。

 

一方では、論理的に考えて可能な、というかむしろそっちであるべき言い回しと、実際に行われてる言い回しとの差を炙り出す。

他方では、なぜその言い回しが採用された/されなかったのかを歴史に問う。

 

ところで、日本語の「正しさ」警察の方の中には、「湯桶読み」「重箱読み」を避ける傾向にあったり、

「『ひと段落』じゃない。『いち段落』だ」

とイミフの難癖を付けたり、など音訓の整合性に敏感な方がいらっしゃるけど、その方は「朝ご飯」「昼ご飯」「晩ご飯」については、訓読みの「朝」「昼」ときて「晩」だけ音読みなことは容認できるんだろうか?

*1:「体言止め」も批判の対象になりがちだけど、これについての私のスタンスは、別の機会に書くかも知れない。