曲に即して

「曲に即して聴く」こと。そこにある情報をなるべく多く聴き取ること。そこに無い情報を聴き取らないこと。

むろん「曲に即して」というのは解像度の低い言い方で、「作曲者の意図に即して」と「実際に鳴ってる音の出来事に即して」とは全く別。作曲者の意図に即して聴くことは、それ以外の聴き方を排除することだ。

音は生き物で、現実の空間での音の振舞いはどこまでも多義的だ。その豊かな音の世界の中で、作曲という人為は、いかにも偏狭だ。

音は、音楽作品の形に整えられてもなお、音としての振舞いを止めない。もし聴き手が何の概念も持たずにそれに向き合ったら、混沌だ。というか如何様にも読めてしまう。

 

ある曲と、TVCM に15秒間だけ使われてる状態で出会って、気に入って、全曲聴いてみたらイメージと違ってがっかりする、というようなこと。

いっぱんに、曲鑑賞は必ず誤解から始まる。作曲者のやり口を知らぬまま、こっちの予期が全方位フルオープンの状態で曲と出会う。出合頭の「誤解」が、曲を聴き進めるうちに作曲者のコンテクストに位置づけられ意味づけられ「修正」されてゆく。

ところが、こっちの勝手な誤解のほうが作者の本意よりもかっこよかったりする。出合頭の印象を払拭するのは難しい、というか捨て難く大切ですらある。 

その印象が頭のどこかにしまわれ持ち越され、後日たまたま出会った他の曲の中でそれが十全に具現化されるのを見つけて「これだ!」ってなったりする。

 

音は生き物で、多義的。音楽作品の中でも、音としての振舞いを止めない。如何様にも読める。

でもだからこそ聴き手は、作曲者の意図、作曲者が音の世界からどんな「意味」を掠め取って来たかを、よほど尊重し、それに沿わねばならない。

いっぽうで、作曲者は、同じ理由から、自らの概念がごく一面的なものであるという謙虚、音の世界の無限の豊かさへの畏怖を忘れてはならない。そのうえで「今回はこの線で行くんだ」という「潔さ」を貫くことが乃ち「作曲」だ。