チェリビダッケ、耳を澄ますテンポ

チェリビダッケシュトゥットガルト放送交響楽団ドビュッシーラヴェル、4枚組CDがあった、とまた叔母の書斎の記憶で申し訳ない。

これです。

うち1枚分が『海』のリハーサル風景だった。

完全主義者チェリビダッケと、ものすごく高性能というわけではないオケとの、緊迫極まるやりとりが聴けた、と記憶する。

リハ開始、曲冒頭、低音の最弱奏が鳴り始めた、と思ったらものの2秒でストップが掛かり、ダメ出し。

以後同様で、ワンフレーズごとに、止めて手直し、執拗に作り込む。

やりとりがドイツ語なので具体的に詳しくは判らないが。

収録時間40分間で、いったい何小節進んだの?という。

楽団員たち的には、気持ちを寸断されるフラストレイション。途中、耐えかねた楽団員たちが、ストライキというか、いったん退席する一幕、と取れる箇所もある(実情は判らない)。

本番を聴くと、リハでの彫琢、フレージングの指示が全く実現されてないので、オケの能力に限界があると聴こえる。

 

チェリビダッケの演奏はテンポが異様に遅いものが多い。そうなる必然がある。譜面を細部に至るまで正確に具現化し、それを聴き手が正確に聴き取るために求められるテンポ、なのではないか。

耳を澄ますためのテンポ。耳を澄ますことは、時を止めること。

CDを聴くテンポというより、譜面を読むテンポに近いのかも知れない。ブレーズにもそれを感じる。

指揮者と楽団員ということでいえば、ブレーズも、楽団員との関係はしばしば険悪になる印象がある。常任指揮者として就任した NYP の(それまでバーンスタインの下でのびのびとやらせてもらってたにちがいない)楽団員との、一触即発の関係とか。

 

まえに「作曲者がいちばん偉くて、演奏者は作曲者の意図を正しく形にするのが仕事」と私のスタンスを書いた。

チェリビダッケとかブレーズとかの「譜面に忠誠を誓う」タイプの指揮者は、楽団員を、作曲者の意図の実現のための「駒」として扱うので、彼らの楽器弾きとしてのプライドと、しばしばぶつかるのだと思う。

 

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これをチェリビダッケに空目して思い出したよしなし事を、そこはかとなく書きつけてみました。