芸能山城組 やまと幻唱

モンテックス氏の御記事。

 

芸能山城組のアルバムには「音の良い」ものが多いらしい、その理由。

でないと、彼らのやってることを捉えられないからだ。

 

私はオーディオに無知だし無関心になりがちだ。狭義の「作曲」を聴くためにならそれでよいかも知れない。バッハはどんな音質で聴いてもバッハ、みたいな。

 

ひとくちに「曲に即して聴く」といっても、「作曲者の意図に即して」と「実際に鳴ってる音の出来事に即して」とはまったく別のことだし、お互いを排除する。

作曲者の意図に即することは、それ以外のこと、「楽譜が掬えないこと」に対して耳を閉ざすことだ。

音は、音楽作品の形に整えられてなお、音としての振舞いを已めない。

 

芸能山城組は、もちろん、高度な演奏技術でヒトの声を最大にコントロールするけど、その中に閉じないというか、コントロールが最大だからこそ、ヒトのコントロールを超えて音がどう振舞うかを解ってる、みたいなところがある。

 

音の出来事はその場具体の1回限り、一期一会、といっても、出来事を待ち受け、あるいは積極的に誘発するための「場」を設えることは出来る。芸能山城組のやってることの重要なひとつはこれなのでは?と、『やまと幻唱』第3曲「咒陀羅秘行 Shudarahigyo」などを聴くと思う。

 

芸能山城組の音楽が高音質を要請する理由。

Ⅰ.

起きている音の出来事を聴く。譜面に書き表せない微細なレヴェルのこと。

ダイナミック・レンジ的に、音が静寂へと還ってゆく瞬間に耳をそばだてることから、トゥッティの咆哮・爆発まで。

というか、咆哮が微細さの集積で出来てる、ということを捉える。

微細さといっても、音量的な微かさを捉えるというだけでなく、むしろ大事なのは構造の微細さを捉えるということ。

2つ(以上)の声が重なって生む「干渉」とか。

Ⅱ.

「現場、具体的な空間」の再現。

現場で起きていること、「体感」されねばならないものごと。これを、オーディオの場で、能う限り如実に再現する。

 

ひとくちに「優れた録音技術」といっても、たぶん2つの方向がある。

①「記録」に徹して声や楽器の音を正しく捉える方向。

② 単なる記録ではない積極的な「表現」としての録音技術。

芸能山城組の録音は①を極限まで追求したものといえるのではないか。

 

芸能山城組のアルバムには「45回転 ダイレクト・カッティング」のものがあったはす、とググると、どうやら『黄金鱗讃揚』がそれ。

 

余談。第5曲「山城節 ”狸” Yamashiro-bushi 'Tanuki'」を聴くと、これの 1'27"~の主メロの音形を思い出す:

あるいはこれの 8'11"~か:

お、'We Have Heaven' のリプライズ付きだ。