見ずに聴く

こちらの御ツイートを拝見しまして、これがどういう文脈での話題なのか存じないのですが、私勝手に、当ブログの過去記事をいくつか思い出したので、振り返ります。

 

これの「Ⅲ.映像の力」の最後の段落から。

「オーケストラ曲を映像にするのって難しい。というかこれは聴き手の問題なんだけど、特定の奏者をアップで映すと、目がそれを見ながら、耳もそのパートしか聴いてない、ということが起こる。オケ全体の中でどこに注意を集中して聴くかを、映像の側が、聴き手に指図してしまう。映像を編集することは、視聴者を誘導することだ」

 

角田俊也と Haco の動画 "The Tram Vibration Project" の視方/聴き方について。

「映像を見ながら聴くのと目を閉じて聴くのとで、脳裏に構成される空間は全く別物になる。さらに、ヒトの空間認識にとっての視覚の優位は、不可避なほどで、目を閉じても純粋な『聴覚空間』を得ることにはならず、即座に視覚空間に置き換わりまたはその中に定位される」

 

これの中ほど、14番目の連から。

「CDを聴く場合でも、純粋に曲から受ける以外の情報を、環境から受け取っている。

聴いて感動してる自分がいるが、いったい自分はどの情報に感動させられているのか、峻別できない。私はとくに子供の頃は、部屋を真っ暗にして、目を閉じて(略)、出来るだけ曲からのもの以外の情報を遮断しようとした。

ジャケ絵が曲のイメージを制限することに、私は批判的だけど、どうせ環境から情報を受け取ってしまうなら、殺風景な私の部屋の景色より、ロジャー・ディーンヒプノシスかポール・ホワイトヘッドの絵に目を落としながらのほうがいい。

個別の聴き手の環境を作者はコントロールできないが、聴き手の身勝手へのせめてもの抵抗として、ジャケ絵を当てがうんじゃないか?」

 

第4連「「ギタリズム」について」から。

「一般に、12の音を平等に俯瞰できるキーボードに較べて、ギターは、音組織をそれ自体として考えるには制約がある。

その制約が却って発想を呼ぶこともある。但し、ギターで弾く限り面白い発想が、キーボードに移して弾くとつまらない、ということはままある。

ギターは演奏する楽しみ(どんな音程も無理なく作れるわけではない制約の中での工夫の楽しさとか、運指の図形的面白さとか)が大きい。ギターでの作曲においては、これと、音組織それ自体・コンポジションそれ自体としての面白さとが未分化で、キーボードはそれを峻別、前者を捨象してしまう」

ただこれは程度の問題で、キーボードにはキーボードの制約がありますし、というかどちらも、もし楽器からの発想に留まるなら、音楽=音の構造そのものを聴いてはいない。

あと、大雑把に音の構造といっても、和声=「音程」単位の作者の意図する構造だけでなく、これにコントロールされない、うなり=「ピッチ」単位の音の出来事にも構造があります。

 

過去記事からは以上です。

私自身、例えばつべでライヴ映像を視る/聴く時、「①基本目を閉じて聴くけど、②場合によって奏者の手許を見る」です。

①と②とでは求めているものが違います。

①では音の情報だけから曲の構造を理解しようとしてます。

②にはさらに2つの別の求めてるものがあって、

②ⅰ… ①の補助。①だけで曲の構造が見えにくい時、視覚情報の助けを借りる。

②ⅱ… ピアニズム的、ギタリズム的 &c. に理解しようとする。運指を見ることによって「理解できた」と思えることが何かある時、これが却って聴覚による理解の妨げになることがあります。聴こえなくなってしまうものがある。

②が演奏者目線なのは間違いないですが、①は作曲者目線とも聴き手目線ともいえます。作曲するということは耳を澄ますということです。

聴き手が「耳を澄ます」ことを突き詰める時、楽器による発音の現場を、音楽=音の構造を得るための「便宜」と見做して、この便宜についての知識を援用しないことで、音楽そのものに近づく、作曲者の耳に近づく、ということがあるかも知れないです。

 

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