音楽はフィールド・レコーディングよりも譫妄に近い

実家にはフォークギターが1本あった。

私は、巻き弦を、指で、弦を張った方向に擦ると、「コ――――」というか「ソ――――」というか、6弦5弦4弦それぞれの音高を持ちながらノイズを含んで掠れ、指が弦のどのポジションを通過してるかによって微妙に撚れる、上空のどこかの大気の流れのような、いやでもそんな雄大なスケールではなくて、静かな部屋でひとり耳を弦に近づけて耳を澄ませて微細な撚れを聴き取る「かそけき持続音」、を発見して、うっとりしてた。

これを曲に使いたいと思った。これが曲のバックに流れてたら即プログレだ。

録音してみた。私の耳はこんなにこの音をピックアップしてヴィヴィッドに聴いているのに、録音機材がこれをまったく捉えないことに、びっくりし、がっかりした。

 

フィールド・レコーディングは、現にそこにある音を拾うのだから、録音機を回しさえすれば捉えることが出来て、私が聴いてるままの音を他の方と共有できる、のではない。

街中の、ノイズの折り重なった中に、ある特定のピッチの音の出来事を私が聴き取って、美しいと思う。これを録音することを試みると、その特定の音の出来事は、ノイズの洪水に埋もれて、聴こえない。一体何を録ろうとしてるのか判らないまでに、単に雑多なノイズの重層の総体のままである。

 

フィールド・レコーディングにおいてすらそうである。

私は今「譫妄」について考えている。ヒトの脳は、ちょっと攪乱されると、ふつうに幻覚を視、幻聴を聴く。これは録画も録音も出来ない、もちろん。

音楽とは、私が世界の中から音の出来事を聴き取り、その「美」を他者と共有しようと悪戦苦闘すること、といえるけど、この「私が聴き取る」営みって「フィールド・レコーディング」よりも「譫妄」に近いと思い始めてる。

 

譫妄については書いておかねばと思い、下書きし始めてはいるけど、むずい。