夢をワンシーンだけ憶えてた。
「YES の音楽を、バスクラリネット奏者の視点ではなく作曲者の視点で捉えると、昔の知り合いの発言が思い出されて腹が立ってくるラジね」
というツイートに
「『サード』と『こわれもの』がイエスの中核であることは確かです」
というリプが付くシーン。
そういえばラジ先生はクラリネットをおやりになる。
5大プログレに続いて出会ったもののひとつに The Enid がある。
CD ではなく、数曲、時間にして10~20分分、今にして思えばハマースミス・オデオン1979年ライヴだったんだろう。
キーボードによってオーケストレイトされた、聳え立つトゥッティと、殊にその谷間にひっそりと慎ましく佇むメロ、そこに施されるアレンジの室内楽的ソノリティ。
豊かなホール・リヴァーブの作る「奥行き」の中に配される、耳を澄ます対象としての音の出来事。クラシックと同じ聴き方で聴ける、といっても、キーボードであること、クラシックそのものではないこと、が重要であるような。
確かにコンポジションがクラシック的ではあるけど、そのこと自体、クラシックに「似てる」こと自体が大事なのではなくて、「聴かれ方」がクラシック的というか。
コンポジションとしても行き届いてるけど、それがこの音場の中で執り行われること、「音像」が魅力だった。
一瞬に属するような特定の箇所の印象が強くて、これを「そのバンドのイメージ」に敷衍して記憶してしまうことはまま起きる。のちにアルバムなどの纏まった形で再会した時、なんかちがう、散漫を持て余す、という仕儀になる。
でもことエニドに関しては、そのがっかりが、少なくて済んだ。