ヴィブラート、ポルタメント、ピッチベンド

「冬景色」  文部省唱歌 1913(大正2)年初出 作詞作曲者不詳

NHK東京放送児童合唱団

 

この歌メロのユニークさはどこから来るのか?

①メロの造形や曲の形式に「気持ちを乗っける」ということが皆無なこと。②反復が無く、とっ散らかってて、「2部形式」みたいな形を取らないこと。③順次進行と跳躍進行の取り混ぜ方。

 

①について。

美しいメロの歌の数々、「浜辺の歌」「早春賦」「冬の星座」「花の街」*1「夏の思い出」はどれも、メロの造形に気持ちを乗っけ、曲の形式がその気持ちをどこかに運んでゆく。「冬景色」にはそれが無い。それが却って硬質で透明な本当の叙情をソリッドに立ち上がらせる。

②について。

「白し 朝の」の箇所だけは「ミーレド、ミーレド」の反復で、曲全体として反復を避けつつここだけ敢えて音の無駄遣いをやって見せるとか、

2行目と4行目は「A - A'」の関係でもないのに行後半が「ミーレドシドー」と同じ形である(しかも後述の通り4行目で長6度進行を使ってでもそこに持ってゆく)とか、

場当たり的なメロ造形。

③について。

順次進行と跳躍進行の取り混ぜ方が、効果のためのプランと思えない。「湊江の」の「とえの」の「レシソ」の下行はむしろ唐突というか雑で、これはこういうものとしてこうある、としかいえない。そこがかっこいい。このかっこよさは、唱歌というよりプログレのシンフォのセンスに近い。

「覚めず」から「岸」までなんか長6度だもんな。

 

つべで何種類かの演奏を聴いた。今回貼ったものが、アレンジも、歌唱も、透明で、まっすぐで、好ましい。アレンジはとくに冒頭22秒間、ソノリティ的にハープ、金物(チャイム?)ノン・ヴィブラートの弦(フラジオレット?)のワンノートの持続、が透明。この金物のパートと弦のパートは、ここではまだメロになる前の「物音」さらにいうと「空気感」に近い扱いで、この弦のパートがこのあとメロとして動き出すと、透明度が落ちる。

 

この曲は私の嫌いな芹洋子も歌ってる。つべにある。ポルタメントが不潔である。一発で正確なピッチを取る能力が無いのだろうか?

私がポルタメントを不潔と思うのは、譜面にその指示が無いからだし、「情」だから。

 

phew「うらはら」の 3'03"~ で「冬景色」が引用される。

この、別文脈がリヴァーブの奥で同時進行する感じを、私は、方法としてもイメージとしても、パクりたくなった。大事な音楽体験のひとつ。

 

ある現代のオペラ作品で、ベルカントで歌われるものがあって、気になった。

現代の声楽曲において、ヴィブラートとかポルタメントとかが欲しい場合は譜面でその旨ことさら指示するもの、だと思ってたので。

オペラ界ではむしろ、指示が無い限りベルカントでやるのが慣例なのだろうか?

私が作曲者なら「勝手にヴィブラート掛けるな」と言いそう。

 

生演奏ではこのように、まっすぐで透明であろうと努めるけど、打込みでは放っておけばまっすぐで透明になってしまう。これは「身も蓋も無さ」であり「不作為」であるから、逆に「有機性」のためにピッチをいじることになる。

私がわりと重要と思ってるのは、ベースのロングトーンのピッチをベンダーでこまめにいじること。音高の変化「ピッチ・ベンド」や「ヴィブラート」のためというより、音色的な揺らぎに近い効果のために。

つまり、リヴァーブのパラメータには「ディレイ」が含まれて、直接音とディレイ音との間には干渉が起きる。ピッチがセント単位で僅かに変わると、干渉によって音が前に出たり奥に引っ込んだりの程度が変わる。ベンダーを、音高の差としては一聴気付かない程度に僅かに動かして、音像の時間的変化=有機性を得る。

*1:数曲挙げてみて、「花の街」(團伊玖磨作曲)だけは、メロに繰り返しが一度も無く形式が自由なことに気付いた。

あと、この曲のメロは、あるフレーズの最後の音と、次のフレーズの最初の音とが、まるでしりとりみたいに同じ高さなのだけど、1か所だけ、1回目の「輪になって」の最後の音から次の「輪になって」の最初の音に4度跳躍する。歌詞に動きが無い箇所でメロが逆に大きく動いてる。この箇所がこの曲の中で特に印象的なのは、(ⅱ、ⅲと短3和音が続いて翳を帯びるからでもあるけど、)そのせい。と今思った。