Art Bears、Cosmos Factory、武満徹

 

邦題「哀しみのイヴェール」。私の勝手な記憶では、センチメンタリズムに溺れるイメージだったんだけど、改めて聴き直すと、ぎゃくに醒めてる。厳しく選ばれた音を、コントロールされた音程・強弱・テンポで、正確に置いてゆく。

 

 

「タイトルに『冬』を含む作品」はあるが、「冬の音楽」は無い。

私は「描写音楽」「標題楽」が、嫌いというより、解らない。

音楽によって、音楽以外の、視覚的情景や、思想、感情を「表現」することが、可能なのか? 価値があるのか?

音楽作品はどこまでもそれ自体としてあらねばならない。その結果として曲の構造が世界のモデルになってるみたいなことはあって然るべきだし、それを世界の「表現」と呼べるなら、それはアリだ。

でも、曲の、形とか動きとかと、例えば「冬っぽい雰囲気、情緒」との間には、いかなる関数も存在しない。

 

ジングル・ベルというものがあるために、鈴の音を聴くとクリスマスを、冬を、思い出す、ということが起こる。鈴の音と冬とが紐付いてるのはたまたまであって、鈴の音がその響きそのものに於いて冬的なのではない。音楽を聴く耳は、そういう記号的聴き方を、まさに戒めねばならない。そこから自由であらねばならない。

 

ただいっぽうで、曲を系統立てて並べることも、音楽的内実に沿っているようでいてそのじつ、曲自体を聴かずにジャンルを聴いてる、という事態が起こって、ニュートラルでフレキシブルでフレッシュな聴覚を害う。

未知の曲を掘るのに、系統に沿っていては起こらない予期せぬ出会いのために、最も瑣末な関連、例えば「タイトルに『冬』を含む」という関連を辿ってみることが有効な場合があるだろう。