nankotsuteacher 氏の音楽

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bandcamp:

https://nankotsuteacher.bandcamp.com/album/anti-meridian-sensory-flow

 

 

この曲を拝聴して、nankotsuteacher 氏のご意図とは別に、私は勝手に以下のようなことを考えてしまった。

 

「同じ曲でも、聴く人によって全く違う聴こえ方をしてるんだろうな」と思い煩う、そのポイントは、ふだんは、

音をどう解釈し意味付けるかとか、多層的な現象・多義的な意味のどこに着目して聴いてるかとか、

耳を澄ますことについての鍛錬の度合いとか、どのくらい細部を、差異を聴き分けてるかとか、

についてなのだけど、

 

そういう「聴く態度」問題以前に、そもそも物理的に全く違う音が聴こえてる場合がある、ということに思いを馳せる。

例えば、周波数。

20,000Hz あたりの音が、聴こえる人と聴こえない人がいる。なので、このあたりの周波数の音を意図的に使って作られた曲は、聴く人によって全く違う音楽になる。実際の音として。その曲が、ある人にとっては「存在しない」。

(可聴域の上限・下限の個人差だけでなく、その中間の特定の帯域が聴こえない、という方もいらっしゃる。)

 

これが、例えばひとつのあり方として、ある音の出来事(メロなりシークェンスなり)がピッチを周期的に上下させて、20,000Hz を挟んで、多くの人にとっての可聴範囲外と、多くの人にとっての可聴範囲内との間を行き来する、という曲なら、「そのうちの何割が聴こえるか」の差こそあれ、多くの人にとって「可聴範囲内に降りて来て、また可聴範囲外へ還ってゆく」という「あり方」においては共通である、音楽を「あり方」において共有できる、ということになる。

可聴範囲とその外とは連続している、0Hz~∞Hz の音の世界のごく一部にヒトの聴く音の世界がある、という認識になる。