音楽に採用する音高

ふと思い出した。Thomas Dolby は最初に 2nd. アルバム "The Flat Earth" を、次に 1st. アルバム "The Golden Age Of Wireless" を聴いたんだけど、前者はとにかく音がいい印象で、較べて後者はその点で物足りなかった。

「音がいい」というのは、周波数特性のことで、後者は前者ほど高域が抜けない、と感じた。

 

雅楽は、音域が狭い範囲に偏ってる。低音パートが、楽太鼓くらいしか無い。

 

私はオーディオマニアではない。曲内容に興味があって、その正しい再現のために必要な音質は欲しいけど、音質そのものを関心の対象にはしない。

ここで問題にしたいのは、ヒトは、というか少なくとも私は、音楽に採用する「音高」について「囚われ」がある、ということ。

 

トマス・ドルビーの件でいうと、2nd. は、0Hz~∞Hz の音の世界がまずあって、ヒトはその中からヒトの可聴範囲を聴いてる、という感覚。オーディオ的な意味で高域が抜けるというだけでなく、作曲の発想において、ヒトの可聴範囲の全域が意識の対象になってるし、その上限下限を意識するということは、必然的にさらにその先まで音の世界は地続きである、ということがイメージされてる。

1st. は、もともと発想がヒトの可聴範囲に閉じてる、その上方と下方に音の世界が無限に広がってることを想像だにしない、という感覚。

あくまで私個人の感想です。

どちらも同様に可聴範囲の人為であっても、それが広大無辺の音の世界の一部と捉えられてるか、その中に閉じてるかの差は大きい。

 

ヒトは、私は、作曲のためにキーボードに向かうとまず、真ん中あたりの鍵盤を弄りだす。べつに 20Hz 辺りから始めても 20,000Hz 辺りから始めてもいいのに、そうしない。

 

ぎゃくに、そのくせ、音域が偏った作曲は拙い作曲、と思い込んでて、ベース・パートが無いと不全感を覚える。

 

全ての音高を隔てなく使うにせよ、逆にわざと偏らせるにせよ、もっと意識的であれる筈だし、もっと自由であれる筈、と思う。囚われは無意識裡のものだから、抜け出るのが難しい。