右利きの音楽

自作曲の中での左右の定位の「動き」について、私は無意識裡に、音楽は「左から右に流れる」もの、とイメージしてるように思う。

例えば、ハープなりピアノなりの1音のアタックをきっかけに、同じ高さの弦のフラジオレットなり純音なりが持続し出す、というオーケストレイションをやる場合に、例外無く、アタック音を左に、持続音を右に置く。左から右に「飛ばす」。無意識裡にそうしてしまってる。

これの 0'01"、4'35" とか、

これの 0'00"(左右交互だけど1回目は左→右)とか、

これの 0'12"、0'55" とか、

これの 0'28" とか。

 

こうなる理由を、楽譜というものの影響かな?と思ってみる。

楽譜においては、視覚的に、音楽が左から右に流れるから、曲がりなりにも楽譜を使って教育された私は、ふだんから知らず識らず音楽をそういうものとイメージしてしまうのかな、と。

(但し、ここに貼った4曲のうち、実際に楽譜に書いて作ったのは1曲目だけ。)

 

もうひとつ思い当たるに、これはヒトの身体の仕組みが決めることなのかも知れない。

私は右利きなので、右手で、右にあるものを左に押し出すよりも、左にあるものを右に引き寄せるほうが、スムーズに行える。これが影響して、音楽空間の中で音像を飛ばすにも、右から左では抵抗を覚える、ということがある気がする。

私の音楽は右利きの音楽だ。

 

右手は「左→右」の動作をスムーズに行えるし、だから文字の横線を左から右に引くし横書きは左→右が多数派だし、楽譜が左→右なのもその延長だろうから、結局は一如なのかも知れないが。

 

「純粋に音として考えるならそうする根拠は何も無いんだけど、必ずそうしてしまう」ということは他にもありそうだし、そのうちのたぶん多くのことを、カラダが決めてる。

 

作曲家の中には、定位へのこだわり方として、「左ではない他ならぬ右」ということが動かしがたいものとして表現の重要な一部になってる、という方もあるだろうか?

「右」「左」の象徴的意味とか。

個人の記憶に由来するものとか。