シベリアの無人島

A:この曲がイエス曲のオレ的第1位といって過言じゃない。

B:「第1位」という言葉はその曲の特性を何も言い当てない。過言だろうと無かろうと。もっと具体的に論じないと。

A:第1位というのは「1時間のベストテン番組の50分過ぎに登場する」ということだ。ゲートをくぐって登場するんだ。そのゲートの縁取りの98個の電球のうち、右から96番目のやつが大道具さんの配線の手違いで点灯しないんだ。どうだ、具体的だろう!

B:左から3番目ね……

A:でも無問題だ。なんしろこの曲が登場するんだ!誰も電球なんか見てない。

B:それではお聴きください。今週のイエス曲オレ的第1位、2140週連続、「サイビアリアン・カトルー!」

www.youtube.com

以前「イエスを1曲だけ選ぶとしたら 'Yours Is No Disgrace'」とか「イエスの最高作は 'The Gates Of Delirium'」とか言ったけど、'Siberian Khatru' がイエスのベト5なのは疑いがない。

 

さいきん、エディ・オフォードのテープ編集の手法が、曲の完成度を高めることを可能にするいっぽう、レコーディングが、全メンバーが納得するまで録音・編集を続ける場となり、ことにスクワイアの完璧主義(と遅刻癖)に嫌気が差したブルーフォードが脱退した、との記述を読んだ。

そのブルーフォードが何故スクワイアのソロ "Fish Out Of Water" に参加したのか不思議だ、とも。

私はそういう事情を知らなかったので、ただ音だけ聴いて、イエスでのこの2人の音楽は相性がいいし、お互いものすごく聴き合ってる、お互いやりやすい、との印象を持ってた。スクワイアがソロ・アルバムを作る時に組むドラマーはやっぱりブルーフォードなんだな、と、これも当然自然のことと受け取ってた。

クワイアとブルーフォードは「アンサンブル」という感じがする。スクワイアの、ソリスト的にどこまでも自由に飛翔してゆくみたいなスタイルは、ホワイト加入で可能になった、のかな?

 

「ランキング」がヒトをワクワクさせるのは何故なんだろう?

それぞれ固有の美を持った曲たちに順位を付けることの無意味と不可能を、誰しも知ってるのに。

聴き手と作品とは1対1で向き合うもので、他人がどう思うかとか、どのくらい多くに支持されるかとかを気にするのは、音楽体験とは別の、むしろそれを阻害するものなのに。

無人島に持って行く1枚を選ぶ」ことが面白いのは、無人島で生きてゆく自分の心境に、絶対に想像が及ばないからだ。

その条件下でなお、私は音楽を聴きたいと思うのかすら。

街にいて、人とのかかわりの中にいて、選ぶ1枚。これは「第1位」のようでいて、如何に「暫定」であることか。心境が変われば他のものと取り換えられる、という条件下で選ぶ1枚。

無人島では、

完全にひとりである。

一生そこにいることに(たぶん)なる。

「1枚」を、選び直すことが出来ない。

無人島には、自然の、聴くべき音が溢れてる。それで飽き足らず「音楽」を欲する。音楽が「ヒトの作ったもの」だから。ヒトとのつながりを求めるから。とすれば、持って行く「1枚」は、かつて属したコミュニティに纏わる「郷愁の音楽」にすべきだろうか?それとももっと、全人類的普遍的な「つながり」を感じせるもの、「ヒトであることの根源」を確認させるものにすべきだろうか?