ベートーヴェン

Ⅰ.ベートーヴェン演奏

この演奏を聴いた時、生涯初めてベートーヴェンを正しく理解したと思った。

「きびきびしてる」。ロックと同じ聴き方で聴ける。

実家にあったベートーヴェン交響曲全集はショルティ/シカゴ響だった。私自身はベートーヴェン交響曲の CD を1枚しか持ってないけど、それはセル/クリーヴランド。「第5」と「第2」のカップリング。

ベートーヴェンはとにかく仕掛けまくる人、執拗に畳み掛けるユーモアが彼の音楽の特質なので、演奏は、ここを具現していれば正しい。そしてショルティとセルはそのもっとも完璧な例なんだけど、これが「ピンと来る」「腑に落ちる」「大好き!」となると、ヤルヴィが最初だった。

ヤルヴィがロックを聴く人かどうか知らないけど、ロックが、クラシックのヒト含めて万人の身の周りに当たり前にあって、身体がそれに馴染んでる、そういう世代のグルーヴ。これを以てベートヴェンの「仕掛け」を「きびきびと」造形する*1

あと、オーケストレイション、木管の重ね方とかのメタリックな質感は、「生身のヒトがせーので音出してここまで磨かれきった響きを出せるのか」という驚きというより、もう初めから「生身なのに」を省いて DTM と同質だ。

 

Ⅱ.ベートーヴェンの後世への影響

「第7」第2楽章の、「ミーミミミーミー」と同じ高さの音が続く、メロじゃないことで有名なメロを、ヴォーカルで「歌う」、という発想が目醒ましい。

 

Ⅲ.映像の力

ヤルヴィに「きびきびしてる」という印象を持つのは、映像のせいもある。切れる身のこなしと、ファッションセンス。

いったいに、クラシックの演奏家のファッションセンスはダサい。宣材写真も滑稽だ。

演奏会ドレスや燕尾服という型に自らわざわざ嵌る、という行為は、「創造」ではない「社交」としての音楽であって、こんな「クラシック界」には金輪際属したくない。

私は音楽「を」生きる。演奏会ドレスを着ることは、音楽「で」生きることだ。

ブレーズがドビュッシー「遊戯」を指揮して映像に残す時、↓のいでたちを採用することには、積極的な意志があるだろう。ドビュッシーを「印象主義」なり「象徴主義」なりの先入観から解放するための。

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にしてもオーケストラ曲を映像にするのって難しい。というかこれは聴き手の問題なんだけど、特定の奏者をアップで映すと、目がそれを見ながら、耳もそのパートしか聴いてない、ということが起こる。オケ全体の中でどこに注意を集中して聴くかを、映像の側が、聴き手に指図してしまう。映像を編集することは、視聴者を誘導することだ。

*1:追記 2020年08月21日

たまたま聴いたヤルヴィに感じた特徴が、ヤルヴィ個人のキャラなのか、世代のせいなのか、曖昧なまま書いてます。なにしろ私は同世代の他の指揮者によるベートーヴェンを全く聴いていません。