場の在り方 ②

多パートの曲で、コンサートホールで演奏されることを想定して書かれたようなものは、どのポイント(空間の)で聴くのがベストバランスか、おのずと決まってる。オーケストラ曲を録音することは、鑑賞に供するために額縁に入れることだ。

テリー・ライリー『In C』は、「聴く曲」である以前に「演奏に参加する曲」で、奏者自身がまずこの曲の聴き手だ。アンサンブルの成り立ってる空間の「只中」にいながら、各奏者各ポイントで聴いてる。

この曲では、演奏者が相互に注意深く聴き合うことが重要で、これは作曲者自身が「演奏の指針」で求めてることだ。

その『In C』、しかも野外で執り行われるそれは、どのポイントで聴き、録音するのがベストバランスなのか、ひとつに決められない。

 

CD などの録音とライヴとは別物といっても、コンサートホールの客席から聴く舞台上の、例えばラヴェルのオーケストラ曲は、「額縁に収まった」音楽であるという点で CD と同じだ。

いっぽうで、絶対に録音で代用が利かない、録音では情報の何%も拾い上げられない、という在り方の音楽がある。

酒井康志氏が8年間お続けになってる『In C』野外演奏イヴェントがまさにそれだし、あと、改めて驚くのは、ドビュッシーにその大元たる「場」についての発想があること。音楽評論集『反好事家八分音符氏』の第10章「野外の音楽」にはっきりとした形で書かれてる:

 

間の声(合唱団ではなくて!……ありがとう)をあわせていちだんと大規模にした多人数のオーケストラを、おもいえがくことができる。そのおかげで、〈野外〉のために特別につくられる音楽ーーすべてが雄大な線でえがかれ、光と自由な大気につつまれた樹々の梢の上をたわむれ舞う声と楽器の大胆な飛翔による、野外用音楽の可能性もでてくる。黴くさい演奏会場にとじこめられたら異常にきこえるような和声の連続が、野外ではきっと正当な評価をうけることだろう。音楽をぎこちなく窮屈にしている形式上のこせついた偏執や恣意的に定められた調性から、自由になる方法も、たぶんみつけられるのではないか。

(平島正郎訳)

 

ドビュッシーの「作品」はもちろんコンサートホールで演奏されるために書かれてるから、作品の中でその発想が実現されてはいないけど。

 

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