コーネルに端を発するやりとり

アメブロでジャックさんが私のコーネルについての記事を御ブログでお取り上げ下さり、やりとりがありました。

ameblo.jp

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御記事に差し上げた私からのコメントを、適宜添削しながら、以下。

 

造形一般に、オリジナルとは何かを突き詰めると「引用と編集」に還元される、でもだからといって誰にでも出来るのではない、みたいな。

そこを見せてくれるのが生花でありコーネルなのでしょうか。

絵という形を当たり前のものと思ってしまってますが、長方形の画面を持つ「絵」も、じつは「箱」なんじゃないか。

音楽でいうと、アサンブラージュからまず連想するのは磁気テープ録音なりディジタルサンプリングなりですが、一般に音楽はアサンブラージュなのか。「曲」という形に収めること自体が箱に閉じ込めることなのでしょうか。曲ではない音楽というのもあり得るのでしょうか。

 

作品は作品として完結しながら、「野良」の状態に憧れることを忘れない。

作曲するとは「世界は、自然も街も、こんなに聴くべき音楽に溢れてるのに、そこにもうひとつ作品を付け足すことに意義があるのか?」と悩むことです。

自然や街の音楽は始まりも終わりも無い、聴き手の聴き始めと聴き終わりがある。作ることではなく聴くことが始まりと終わりを決める。つまりはやはり「作品」「曲」であることからは逃れられないですね…

 

以上が差し上げたコメントです。

 

 

自然の物音(とか、都市の物音とか)は、始まりも終わりも無い永遠のドローン、と一旦は思う。

でもその「永遠の音楽」の聴き手は、いったい誰なんだ?

 

「散歩される音楽」というのを考えてみる。

遊歩道で、川がせせらぎ続け、歩みを進めるにつれ、その音が茂みの陰から漏れてきたり不意に足下にあったり、梢が戦ぐタイミングにちょうど居合わせたり居合わせなかったり、鳥がいろんな定位いろんなパースで間欠的に囀ったり。

そして散歩者はいつどこからそのコースに入っていつどこからそのコースを逸れてもよい、というような。

 

でも、音楽と規定する以上はヒトの範疇のものだ。自然の物音それ自体が音楽なのではなく、それを聴く者がいてそれが音楽になる。

コースに入る=音楽が開始する、コースを逸れる=音楽が終わる、なのであって、つまり始まりと終わりを「作曲者」ではなく「聴き手」が決めてる、というだけで、やはり始まりと終わりがあること、「曲」であること、からは逃れられないのだった。