場の在り方

劇作家高野竜氏が、2016年の「ぼうそうあたり」の演出として「都々逸リズムの同じ歌詞を音頭と追分で二回に歌い分ける」ことをなさってた(という御ツイートがあった)。

ひとつには、曲そのものの在り方として、シラビックかメリスマか、拍節感の有無の差、ということがあるだろう。ボギノドーとオルティンドー、的な。

もうひとつには、もしかしたら場の在り方として、「みんなで参加」か「個人の技量を披露する演奏者 vs. 鑑賞する聴衆」かの差、に持ってゆけるかも知れない。

 

音楽消費生活において、舞台と観客席とが分離してる、ということに違和感をもつ契機はなかなか無い。

 

パレード。全長1キロメートルくらいの。個々の奏者は自分の前後10メートルくらいの奏者との間でアンサンブルをやってる。隊列のその他の箇所で何が起きてるのか知らない。全体を把握する者は誰もいない。でもとにかく自分の属するアンサンブルの演奏は最初から最後まで聴くことが出来る。

沿道の定点で聴く者は、パレードの中で成立してるいくつかのアンサンブルを順繰りに全部聴くことが出来るが、それぞれのアンサンブルはフェイドインで始まりフェイドアウトで終わって、途中の数分間しか聴くことが出来ない。全体を把握する者は誰もいない。

アンサンブルと次のアンサンブルとの端境の混沌を聴けるのは定点にいる者である(奏者は、端境付近にいても、必ず前後どちらか一方のアンサンブルに意識を集中してるので、もう一方の音はノイズとして排除されてる)。

もしかしたら、個々人にはそれぞれの持ち場しか把握できないからこそ、全体としての一体感を生み、祝祭的高揚を生む、のだろうか?

 

全体像が判るのは神だけ。神は数キロメートル離れた複数の音も同時に聴くし、同時進行の複数の文脈を聴き分ける。神にとっては、音楽は始まりから始まって所要時間を費やして終わりで終わるものではない。時間はヒトの制度だから。

だから、逆にもともと神に捧げる目的でやる音楽の場合、ヒトが聴いて判る必要がない。

 

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