前回のこれを手短にいうと、発音源を見ながら聴くことは、「何の音か」を聴くことで、見ずに聴くことは「どんな音か」を聴くこと、といえるでしょうか。
聴覚のみに頼って音そのものを聴く時、これを何が発してるのか、ギターなのかツィターなのか、あるいは楽器ではない何かの物音なのか、ヒトの声真似なのか、は問題にされない。
視覚情報を援用して、これを「ギターの音」と同定してしまった瞬間に、聴こえなくなるものごとがある。もう音そのものは聴いていない。
ただいっぽうで、見ることによって音そのものについての解像度が上がる、ということもある。聴覚でだけ聴いて、ディストーションの掛かったギターの音と思ってたのが、見るとヴァイオリンだったとか、オルガンだったとか。
こういう経験を経ることによって、耳がその3者の差異を聴き分けられるようになる、ということはありそうです。
あともう一つ思い出したのが、「定位」の問題です。
発音源を見ながら聴いてると、音がその方向から聴こえてる、と疑われず納得されてしまう、ということがあるのではないか。
音は音場の環境の中でディレイやリヴァーブの間接音を必ず伴っていて、聴き手は「連続的な定位」に「包まれてる」状態である、ということを聴き落とす。
別の話ですが、ごく若い頃、自宅の洋間でマイク録りしてました。
アクースティックなリヴァーブが欲しかった。吸音するものを全部外に出して、あるのはピアノとアンプだけ。私自身の身体も「吸音するもの」なので、シンセやギターは、アンプからケーブルを延々伸ばして、隣室で演奏する。ピアノを弾くには、私自身の身体をそこに置かざるを得ませんが。
ある時、左寄りに定位して録ったピアノの音を再生してて、ロングトーンのディケイの途中からの再生になった。どっちから聴こえてるのか判らない。
アタックまで戻して聴くと、左だと判る。でもレヴェルメータを見ると、むしろ右のほうが大きく振れてる。
定位を決めるのは音量だけではないのでした。