移動パン屋さんの音楽

拡声器からのエレクトーン音楽が空間内を移動して、フェイド・インして来た。
私は一般に物売りの拡声器の音が嫌い、というか、音そのものが嫌いという以上にその強迫性、自分の都合を相手に許容させて平気でいる無神経が嫌いなんだけど、この、お伽の国から夢を運んで来ました的な音楽には、一瞬で虜になった。
寄せては返すクレシェンド、ディミヌエンド。曲中間で一度、半音上がる転調。
移動パン屋さんだった。近所に停車して数分商ってた。
次回を待ち構えて、1週間後くらいに、自室まで届いてくる音楽を録音した。
これを再生して聴くという行為は、すなわちこの曲を曲そのものとして聴き、評価することだった。結果、全くの別物に聴こえた。夢見るお伽の要素は聴こえて来なかった。がっかりした。
現実の空間内での鳴り方、周りの建物への反響とか、それが音源移動によって刻々変化するとか、なにより、なにか予期せぬものが異世界からやって来たというワクワク感、そういう要素込みで世界が成立してるのだった。
(よく聴くと微かにドンカマが聴こえて、意外とラテンっぽい。それもいいんだけど、私の夢想からは、ずれてた。)

という時、だから音楽にはそういう、作曲とか演奏とか以外の、環境とか機会とかの要素が不可欠なのだ、という結論を導くことも出来るし、そういう要素をも「作曲」の要素として考え積極的・意識的に取り込めばよいのではある。

でも、私はまず、作曲について厳しくあるための「戒め」を読み取ってしまう。
狭い意味での作曲、この場合でいうと「エレクトーン曲として作曲する」行いにおいて、作曲そのものとしての不足を補う目論見で、環境や機会の齎すものを当てにする、ということがあってはならない、と。