Cluster "Cluster II"

呼び方が判らないので「対称」と呼ぶ。

例えば、「だんだん強く」と「だんだん弱く」は、言葉による表現として対称だし、視覚的に、クレシェンド記号とディミヌエンド記号は対称の形をしてる。

でも、ヒトの聴覚による認識において、これらは本当に対称だろうか?

 

豪雨の音が強まったり弱まったりを繰り返す只中にいると、クレシェンドは意識されるし恐怖を覚えるけど、ディミヌエンドには気付かない、ということがある。

 

ある法案に「賛成」というのと「反対」というのは、本当に対称の関係なのか?

賛成するのに要するエネルギーと反対するのに要するエネルギーとは、同じ大きさなのか?

各値が50%であることを以て「拮抗」と単純に言っていいのか?

 

 

"Cluster II"、こんなことやってたのか。すげえ。(いまごろ)

私がとくに凄いと思ったのは、「連続的変化」。

 

曲の進行・展開について、例えば変奏曲のような「ある長さをもつ主題が、繰り返される*1たびに形が変わってる」という「指折り数えられる」変わり方ではない「連続的な」変化、というのがある。複数のトラックが重なってて、ひとつがフェイド・インしてくる入れ替わりに別のひとつがフェイド・アウトしてゆく、そのことが曲の進行・展開である、みたいな。

「ここまでが主題提示、ここからが第1変奏」「ここが第1変奏の終わり、第2変奏の始まり」というポイントを特定できない、「気付くといつの間にか変わってる」という変わり方。

これを思ったのは、Jean-Claude Eloy "Gaku-No-Michi"(1977~8年作曲)を聴いた時なんだけど、こういう在り方はもっと以前からあったんだろうとは思ってた。

"Cluster II" は1972年の録音・リリース。ここに既にあるじゃないか。

 

 

で、「気付くといつの間にか」といっても、鳴り始める音、クレシェンドないしフェイド・インしてくる音には比較的気付きやすい。

でも、こういう在り方の曲の中において、あるトラックがディミヌエンドないしフェイド・アウトしてゆくことは意識の対象になりにくいし、「今ここでこのトラックが鳴り已んだ」と確認することを、ヒトの認識は、ふだんやってない。

 

音楽は、ヒトの認識の対象である、殊に聴覚による認識の対象である、ということがアルファでありオメガだ。数値が同じ=効果が同じ、という世界ではない。というか、もし数値化したいなら、ヒトの認識をも対象に含めてやらねばならない。

*1:これを「繰り返し」と呼ぶのは全く正しくないけど。