譫妄 1/2

譫妄といっていいのか、ヒトの脳は、ちょっと攪乱されると、ふつうに幻覚を見、幻聴を聴く。私の場合、ICU で目を覚ますとそうなってた。

その、描写と、「視てる/聴いてる私の側がコントロール出来る要素がある」ことについて。

 

この話の大部分の紙幅を「幻覚」が割くのだけど、先に「幻聴」について書く。

 

幻聴

周りの物音全部にリング・モデュレイションみたいのが掛かった状態。ウォシュレットに落ちる滴たちの音が、正確にド、レ、ミ、ソの音程を取り、水琴窟みたい。滴の音がモデュレイションのキワで人の話し声に聴こえる。音と、意味を、はっきり聴き取れる。

幻聴の中でも「人の話し声」は、そこからメッセージを受け取ってしまうので、危険だ(視覚的な「幻覚」でも、次回述べるつもりだけど「壁一面に文字が見える」というのがある)。私はこれが幻聴だと客観視出来ていたので、そこはダイジョブだった。

 

男声 or コントラバスくらいの音域で単旋律が聴こえ出した。旋法的で、ゆっくりで、ポルタメントを伴う。

気付くと、この単旋律は、私の意識が選んだ音程に進んでいた。私の意識が譫妄をコントロールしていた。私が譫妄を作曲していた。

聴こえる「気がする」のではない。はっきりと実際の音として聴こえる。

私は、まず、思った。空調の音などから成る建物内の環境音は、ピンクノイズの様相を呈し、あらゆる音高を含む。だからその中からどの音高をピックアップすることも可能なのだ、普段の耳では難しいが、今はそれを出来る状態に私がなってるのだ、と。

でも譫妄の効果は、もっと積極的なものだった。たんに空調の音の中から特定の成分をピックアップするというより、そこにモデュレイションが掛かって、低音域の方に向かってエグい幻聴を形成、常時、ディジェリドゥみたいな超低音+倍音のうねりが聴こえる。チベット密教喉歌による超低音のマントラのようでもあり、その上に男声合唱が2声加わり、曲になり、エンドレスで鳴り続ける。この曲も私が意識的に「作曲」できるのだけど、曲が特定の(悠然とした、長調の)形に落ち着き、建物内のどこかで常時法要が執り行われてる状態だった。音像は遠かったし、苦痛ではなかった。生活に支障も無かった。

 

ナースコールの呼出音は、数台同時に鳴ってもそれぞれ判別できるように、ということなのか、メロのパターンが同じでも各台ピッチがずらしてあった。

ある時、ナースステーションの方角から、この呼出音の音色を使ってメロを作ってる作業とおぼしき音が聴こえてきた。いろんな幅の長3度を試している。微分音を作れるのか。だから数台のナースコールを互いにずらすことが出来るのだな、と納得した。

その後、そのような作業は行われてなかったと気付いた。詳細は省くが、これも事実誤認&それに基づく思い込み=譫妄のようだった。ただし、これを譫妄だったと根拠づけるその後の認識が、もうひとつの新たな譫妄だった可能性が大きく、結局私はいつ譫妄から抜け出たのか、あるいは今もまだその続きの中にいるのか、私自身に判断できる性質の事ではない。

 

音楽とは、私が世界の中から音の出来事を聴き取り、その「美」を他者と共有しようと悪戦苦闘すること、といえるけど、この「私が聴き取る」営みって「ノイズの洪水ないしピンクノイズの様相を呈する環境音の中から成分をピックアップする」とかよりも「譫妄」に近い、と思い始めている。