友人と、野木青依氏について話した。
「音楽と環境音とが互いの成立を妨げない」という在り方を私は武満の文章で知ったし、イーノのアンビエントもそういう発想だと思うし、マリー・シェーファーとかもある。
で、そういう諸々を野木氏もご存じの筈で、アカデミックな理屈の裏付けがある筈なんだけど、お話にペダンティックなところが無い。もっとナチュラルなところから来てるようにも見える。発想が、ことさらにではなく、自然に当たり前に身に付いてるようにも見える。
世代的なもの?
で、友人が「マリンバという楽器の特質とも関係があるのかも知れない」と。
「場や生活の中に自然にある音との調和を優先する傾向」が、例えばアカデミックの本道たるピアノを専攻する者に較べて、高そう。
たしかに、身の周りで見かけた良い音の出そうな物はとりあえず叩いてみる、とかの行為と、マリンバって、直に繋がってる。
そういうやり取りが数日前にあって、今ふと、私は David Van Tieghem のことを思い出した。
音色の素材を、ふつう楽器と認められてるものに限らず、最大広く求める人、という印象がある。
私は身の周りのものをとりあえず叩いてみる奴だし、打楽器はまず何よりも音色のためのものだと思ってるのに、Tieghem にあまり共感しないのは何故か?みたいなことをぼんやり考える。
彼の関心って、音色といっても、アタックの瞬間にしか働いてないんじゃないか?
アタック音の音色と、それを切れ目なく連ねて「ビート」を作ることにしか。
(あと「見せる」ためのパフォーマンスの要素が大きいだろうか?)
私の打楽器の音色への関心は、むしろ「余韻」に向かって働く。連打するんじゃなくて、ひとつの音が時間経過の中で見せる変化とか、減衰して静寂の向こう側に還ってゆく瞬間とか、に「耳を澄ます」。
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