ジャック・メルシエ指揮イル・ド・フランス国立管弦楽団のドビュッシー『聖セバスティアンの殉教』

ジャック・メルシエ指揮イル・ド・フランス国立管弦楽団ドビュッシー『聖セバスティアンの殉教』を、10数年ぶりに聴き直した。

かつて私はこれをこの曲のベストの演奏として推す勢いだったけど、いろいろ考え直した。

(ディスクドライヴのエジェクトボタンが反応しないといってたのは、押し方が足りなかっただけみたい。指の腹で押すんじゃなくて爪で食い込むくらいに押すやつだった。)

(いま Windows11 にしたところなので、それで使えるようになった可能性もあるけど。)

 

印象が変わった。頭の中のイメージだと、もっとシャープだった。夾雑物を極限まで取り除いた響きで、即物的にアンサンブルしつつ、しかも「象徴」を、「詩」を実行する、という。

 

好感は持ちます。面倒な「表現」が無く、響きとしても室内オケみたいに透明でけっしてうるさくならないところに。でもそこを意識的に打ち出してるのかは判らない。

演奏の意図がどこにあるのか、見えにくい。そもそも意思的な人なのかどうか。

正しいパート間のバランスで正しく譜面を音に置き換えてるから自然に正しくなってるふうで、意思的に、和声の妙味をくっきり示すとか、斬新さを分析して見せるとか、は感じない。

むしろおっとりと単調で特徴が無く、なまくらとすら。

 

びっくりしたのは、徹底したイン・テンポ。区切りの箇所でポーズを置くとか、ルバートを掛けるとかが一切無い。打込みみたい。「フランスの粋(イキ)」的な邪魔なものが一切無いのがものすごく正しい。

 

合唱がピッチ的にもアーティキュレイション的にもいまひとつピリッとしなくて、ここの音形ここの細かい動きはおろそかにしちゃダメ、流しちゃダメだろ、みたいな箇所がある。

わたし的この曲のキモは「アドニスアドニス」の箇所なんだけど、ここの和声の妙味がいまいち正しく示されてない気がしたのは、そのために要求される正確なインターヴァルについて、合唱がじゅうぶん意識出来てないからなのでは??

 

録音も、記憶にあった音像と違う。間接音が多い。

空間が鳴ってるという感じは気持ちよくはあるけど、なにしろ私が勝手に思うこの演奏の意義的には、空間として、ブレンドされた結果としての響きじゃなく、ダブつきの無い響きの各パートが関係しあうほうが相応しい。で、私の記憶の中では、それが実現されてることになってた。

 

この盤には朗読パートがある。本来そういう作品なのだし。曲間のものについてはスキップ出来るけど(だってフランス語判らないし…)、音楽に被さってる箇所もある。

 

 

問題は、10数年前の私の評価がなぜ「理想として推し」になったのか、だ。

直前に何を聴いていたか。

私はこの曲を最初アンセルメ/OSR で聴いた。このオケは響きそのもののキャラが既に強い。時期にもよるけど。いわゆるテクニカル・タームでいうところの「へたくそ」なのかも知れない。「譜面を音化した結果」以上の味が出てしまう。とくに(このオケのある時期の)クラリネットのキャラが立って、溶け合った全体としての「オケの音」から浮いてる。これを私は「魅力」だと思って来て、このオケで知った曲を他のオケで聴くと物足りない、ということがよく起こる。

『聖セバスティアンの殉教』についていうと、アンセルメの次に聴いたのはマイケル・ティルソン・トマス/LSO で、これを素っ気ないと感じてしまった。同時に、私がこの曲の冒頭でいきなり引き込まれてたのは、ドビュッシーの力なのか、アンセルメの、あるいは OSR のクラリネットの力なのか、疑義が生じた。

アンセルメ相対化、彼をレファレンスとしてしまってることを問い直す機運が、私に来た。この曲を正しく音化してなおかつ恍惚とさせる演奏を求めてた。

私自身のフェイズとしてはもうひとつ、古楽演奏のほうでガーディナーとかパロットとかの透明に打たれて、ガーディナーではフォーレ『レクイエム』にもびっくりして、「近代オケ」自体が相対化され、というかピリオド演奏こそ正義、ってなってた。

そこにメルシエ盤が登場した。私はこれを、オケの世界の最前線の機運に乗った、ものすごく意思的な取り組み、と聴いてしまった。正しくは「オケの世界の」じゃなくて「私個人の」機運に応えてくれる、と聴いた。

響きの夾雑物を極限まで取り除いて即物的でありつつ「象徴」を「詩」を実行する演奏。

 

思い返すに、ティルソン・トマスこそ理想なのではないか? LSO だし。聴き直したい。