はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
「多様な価値基準を持てること」は格好良いことではあるが、私は、私の審美眼が鋭くあるために、「何を好きか」と同時にそれ以上に「何を嫌いか、許容できないか」を明確にする。それが表現者には必須と思ってる。
長ずるにつれ、聴く対象を、いっぽうでは拡げ、もういっぽうでは厳しく選別するようになる。
いっぽうでは、ジェネシスやドビュッシーを好む12歳の耳にとって「音楽」の範疇に無かったタンジェリン・ドリーム『アルファ・ケンタウリ』やシェーンベルクを、22歳の耳はものともせず聴く。
もういっぽうでは、「エリーゼのために」と同じくらい名曲だと思ってた「乙女の祈り」を、とても聴けなくなる。
自由になってるのか、不自由になってるのか。
「知恵が付くこと」と「素であること」とは、矛盾するのか、しないのか。
「10年前の私は素の私だった、今は外から借り入れた知恵に随って物事を見てる」わけではあるまい。遡れば「純粋な私、本来の私」がいて、学ぶことによってそこからはぐれた、のではない。そもそも私のモノゴコロは、外からの刺戟で始まったものに違いない。
真の創造性を求めてるつもりだけど、そもそもその動機がどこから来てるのか、考えることがある。
目指すべき理想があるのか、単に同じところにいることに飽きて次を求めるのか、他人との比較で優越感が欲しいのか(どれもアリだけど)。
幼稚を克服して次に進むことを止めはしないけど、ふと、貧しい音楽であってもそれで心満ち足りてたのならそっちのが幸せだったのでは?とも思う。
10がキリ番なのは、ヒトの日常生活がたまたま10進法を採用してるからだし、10進法を採用してるのはたまたまヒトの指の数が10本だからだけど、いったんキリ番と決まってしまうと、これが心理を律する。
音楽史を考えると、『宮殿』の1969年から見た1959年って歴史の彼方だけど、2021年は2011年からの同じ時間の続き、と感じるのは何故なのか。
さすがに直近の2年間は、こんなだけど。
私個人の、音楽についての好みや考え方は、少なくとも意識の上、なーんも変わってない。
ただ、大きいのは、作曲を再開したこと。きっかけはこの曲。
2016年07月24日、ばりゃぴさんのお誕生日に、作曲して、打込んだ(後日少し手直し)。ちょうどこの10年の真ん中の年。
音楽生活を続ける中で、「変えてゆく/変わってゆく」(それは必ずしも「進歩」を意味しない)には、いろんなやり方/なり方がある。
① 意識的に「同じことを2度やらない」、「書くすなわち拓く」な場合。漫才でいうと爆笑問題。
② 音としては同じだが、意識は毎回新た、という場合。
③ 意識としては同じことを繰り返してても、加わるもの、省かれるもの、深まるもの、があって、変わっていく場合。お決まりのギャグを持ってて、それを繰り出すとウケる、というほうがふつうなんだろう。
どれが正しいかという話ではない。
音楽家は一生を掛けて、クロニクルというひとつの作品を作る。主題があって、それが繰り返し登場することで作品が展開するし、ぎゃくに作品の展開の成り行きによって主題の形や意味付けが変わる、というイメージ。
実際の作曲の場面についても、作者が意図的に主題として設定するもの以外に、作者も気付いてるとは限らない、分析すると出て来る音形があって、それは1作品内に収まらない「作曲活動全体の主題」で、こっちのが、深きに由来する、本来の主題なのではないか?