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すぐに思い出さなかったのは全くの迂闊なんだけど、私がこのコードを最初に意識したのは、まさにドビュッシー『ペレアスとメリザンド』第3幕第1場の冒頭でだった。
00'15"、00'36"、01'21"、01'53"。
ここでは、B のコードへの付加が、短6度である g と長6度である g♯ とを行き来する。私のこのコード解釈が、増3和音をもととせず、「長3和音への付加」となるのは、このコードへの意識がこの曲から始まってるからだ。
スペイン音楽からの影響だろうか? ということはさらに元をたどればアラブ音楽ということになる。とにかく教会旋法とは別文脈。
じつは私はドビュッシーに、出合頭にガツンとやられたわけではなかった。「牧神の午後への前奏曲」はふつうにきれいな曲に聴こえた。本当に引き込まれた最初は、「ペレメリ第3幕第1場とそれに続く間奏曲」の14分間だった*1。
ものすごくイレギュラーなことに、最初に聴いたのはセルジュ・ボド/リヨン管弦楽団の演奏だった。いま聴くと、凡そ彫琢というものが無い。曲の仕組みを解き明かして見せるという意味でも、表現・世界の描出という意味でも。でも最初の出会いがこの演奏だったことを、じつはラッキーだったとも思う。ここは説明が難しいけど、とにかく最初に聴いたのがもしカラヤン/ベルリン・フィルだったら、私はこの曲と本当には「出会っ」てない。
あと、長調と短6度・短7度との親和への関心、ということでいうと、これの影響が大きい。
B の曲が、Em に進んだり、たまに G に終止したり。
もっとも、この曲はたしかに B で始まって B で終わるけど、そのことを以てこの曲が「実質的に」B の曲であるといっていいのか、疑問だ。
この曲の和声は実質的には短調のそれであって、Bm の 3rd. を d♯ にすることで長調を偽装してる、と捉える方が、いろいろすんなり納得できる。「ピカルディ終止を曲冒頭でいきなり先取りしてる」的な。0'42" からのロ短調としての展開がこの曲の正体だろうし、D に終止しもする。
この曲 'Miserere My Maker' は作者不詳だが、このリュートと歌のヴァージョンは、Thomas Campion が1615年に出版したものの筈である。ウィキペディア「トマス・キャンピオン」では、彼の肩書は「作曲家・詩人・内科医・殺人者」となっている*2。
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