それ自体が悪いわけではなくて

車輪の再発明」が批判されるのは正しい。先行研究を踏まえることをサボるな、という意味で。

でも私は「効率主義」をこそ最も危ういと感じる。根本を見失いそうで。

先人が導き出した「結果」「スキル」を受け継いで事足れりとせず、

理想的には、先人の試行錯誤まるごと、先人がその先人から受け継いだものまるごと、科学技術史の総体、を受け継ぐ。

少なくとも、受け継いだスキルの「意味」を問い、つねに問い直す、そのために研究者各個人が彼の中で車輪を再発明するプロセスを、怠ってはならない。

 

YMO が出て来た時の衝撃を、私は後追いで知識としてしか判らないけど、衝撃が大きすぎて「テクノで音楽を知ってテクノを始める」エピゴーネンを大量発生させる状況があったように見える。

「マンガでマンガを勉強してはならない」の戒めを思う。

YMO の3人は元来「テクノの人」ではない。YMO がテクノを発明したバックグラウンドを丸ごと引き受け、テクノを各個人の中で再発明する。これはロック史を、音楽史を引き受けることだし、「創造」であるための手順だ。

 

 

支配欲が悪とは思わない。いけないのは、この相手は支配可能、という打算だ。

 

 

私は白玉コードがダメだ。

でも、白玉コードであることを以て一律に無条件に排除してよいのか?

やりよう、それをする「意識」のありよう、の問題のはずだ。

この曲の 1'26" 目~は、敢えてする「《造形としての》白玉コード」の説得力だ。積極的にかっこいい。

 

プログレ聴き始めの時分のエピソードをしばしば持ち出すのは。

クリエイティヴィティとは何か、つねに問うているつもりで、すぐに硬直して新鮮な驚きを失う、

そもそもプログレのどこにびっくりして聴き始めたのか、思い出してみる、

ということなのです。

(むろん大概は鑑識眼の稚拙ゆえの驚きで、その克服を重ねて今に至る。)

たんに、当時感動した箇所を聴いて、いま同様に感動しよう、ではなく、それが当時の私にとって目覚ましかった、それを聴く以前と以後とで私の世界が変わった、という事実が重要で、そういう変革は、今の私にとっては何がそれに相当するのか問う、ということ。

「なつかしさ」のためではない。その逆。

 

といいつつ久しぶりに school food punishment 聴いたら「なつい」と口走りそうになった。