(2015年12月9日、記)
お薦めではないのでつべのリンクは貼らない。
私はロマンティストだ。
コンポジション至上と散々表明しながら、そこに「恍惚」を求めてる。
紛れもなくロマンティストだし神秘主義者だ。
音の組み立ての純粋を以て善しとしながら、この「純粋」というのが訝しい。
それでも音楽の「映像喚起力」は、信じない。
音楽がその自律を貫きつつも、視覚イメージや言葉とコレスポンデンスすることが、果たして可能なのか、価値があるのか。
そこに関数は存在するのか、問い詰めることをせずに、安直に音楽に絵や詩を併置する者に災いあれ。
音を聴くことで桃源郷に連れてゆかれるということは、紛れもなく、ある。
音が、音である限りはそれそのものになってしまうことは出来ないが、それを示唆し、それに憧れる。
音によって絵が見えるのではなく、音と絵とがともに憧れる、それ。
シェーンベルクのピエロ・リュネールを評してストラヴィンスキーが「ビアズリー的」と言い当てたら、まさに!と思っちゃうし。
音楽が、音楽の手続きに徹しつつ、なにかを示唆し、絵が絵の手続きに徹して示唆するものと響き合うことがある、と信じてしまうし、それを素敵なことと感じることが罪ではないと思ってしまう。
桃源郷。
「懐かしさ」はキーワードになり得る。
たんに「幼児体験」に還元できる話かもしれない。
こども時代のバックグラウンドにたまたま鳴っていた音楽を思い出させるもの。
それ以上に遡って、ヒトに普遍の、集合的無意識(失笑)に至る役目を、音楽は担えない。
若い頃の私はさらに包み隠さずロマンティストだったし、音の映像喚起力についても無邪気に信じてた。
プログレ入門に当たっては「幻想的」「シュール」がキーワードたり得た。
後に、曲の謎を解いたり、作曲をしたりの為に、これらの語がワークしないことに気付くわけだが。
同じ曲を聴いても、昔そこに聴いていたものが今はもう聴こえない。
Led Zeppelin を聴きだした小6時分、いちばん好きな曲は 'No Quarter' だった。
最もプログレ寄りだからだが、当時確かに私はあのイントロを、即物的なエレピとしてではなく、正体の判らない音として聴き、その向こうに、硬質で暗い空間と、そこに蠢く何者か(サンゴの産卵か何か)の気配を「視」ていた。
最近聴き直してみると、実際にそこに鳴っている音の情報しか聴き取れなくなっていた。
(そのぶん、小6当時違和感を覚えたジャジーな中間部を、すんなり受け容れた。
当時私は、この曲のアレンジやモードに「独創」と「神秘」を認めていて、「俗」で「アリモノ」のジャズイディオムの闖入が興を醒ましてる、と感じてしまう程度に、純情だった。)
(エレピに掛かったワウ、ヴォーカルに掛かったエフェクト、ペダルによるベースの音色などから、作者自身の意図に神秘性の表出があったことは疑いないが。)
(Zepナンバー中最もプログレ寄りで、モードに独創性があり、アレンジにキーボードを多用した、随って当時の私好みの2曲、'No Quarter' と 'In The Light' は、ともに J. P. Jones の曲。)
Pink Floyd 'Echoes' 出だしの1音だけであちら側の世界に持って行かれたのは、あの音が得体の知れない音だったからで、ピアノをレズリースピーカーで鳴らす、というメイキングの現場を見た時、神秘は消えた。というか、もうピアノの音にしか聴こえない。
これはもちろん、「最新エレクトロニクス機材を駆使してると思いきや、在り来りの楽器の使い方の創意でこんな音作ってスゲエ」という積極評価なのだが、要するに曲を聴いた時に浮かぶ絵柄が、得体の知れない異世界から、ピアノに向かうリック・ライトに取って代わった。
Yes の 'And You And I' の陶然とさせるポルタメントの正体がスティールギターと知った時も、然り。
いっぱんに音楽にはそういう「即物性」と「ロマン性」の相容れなさがつきまとう。
文学作品や、パフォーミングアート以外の美術作品は、作者から独立して存在する。
ダンス、舞踏では、アーティスト自身の身体の動きが即表現である。
どちらの場合も即物性とロマン性の矛盾は少なくて済む。
音楽においては、ステージにスモークを焚いてライトを当てて、どんなに演出しても、そこに見えてるのは楽器を演奏する人の姿で、音楽の表現する世界の中の住人じゃない。その食い違い。
CDを聴く場合でも、純粋に曲から受ける以外の情報を、環境から受け取っている。
聴いて感動してる自分がいるが、いったい自分はどの情報に感動させられているのか、峻別できない。
私はとくに子供の頃は、部屋を真っ暗にして、目を閉じて(真っ暗な部屋の中で目を閉じることに意味があるのか?)、出来るだけ曲からのもの以外の情報を遮断しようとした。
ジャケ絵が曲のイメージを制限することに、私は批判的だけど、どうせ環境から情報を受け取ってしまうなら、殺風景な私の部屋の景色より、ロジャー・ディーンかヒプノシスかポール・ホワイトヘッドの絵に目を落としながらの方がいい。
個別の聴き手の環境を作者はコントロールできないが、聴き手の身勝手へのせめてもの抵抗として、ジャケ絵を当てがうんじゃないか?
似てるようで逆のケース。
ドビュッシー「プレリュード第1巻第4曲(音と香と夕べの空に廻り来る)」が大好きで、CDでよく聴いていた。
和声の、理屈で割り切れない複雑で豊かな響きと、その微妙な移ろい。
譜面読んで、自分でも弾けるようになってみると、同じCD聴いても、響きが整理整頓されて「譜面通りにしか」聴こえなくなってしまった。
作曲者が書いたとおりに聴こえてるのだから、正しい理解と言えるが、それまで、和声=「音程」単位の作者の意図に加え、うなり=「ピッチ」単位の出来事も聴こえてて、両者未分化の「響き」の不思議にうっとりしていたとか、サステインペダルによる開放弦どうしの共鳴とか、楽器や、鳴らされる環境などの条件でその場限り生じた音の出来事込みで、実際に即して聴き取っていたものが、聴こえなくなった。
分析し意味付けることで聴こえなくなるものがあるという点、作者の意図に忠実に沿うことで、作品がそれ以外のものであり得た可能性を閉ざす点で、一見この2つのケースは似ているが、'No Quarter' 'Echoes' の場合は、本来曲と無関係の聴き手の無根拠な連想を排するという例、「音と香と」の場合は、現にそこに起きている現象が聴こえなくなる、実際に即して聴く事を概念が邪魔する例なので、分けて考えるべきだ。
このところしばしば小6時分のエピソードを持ち出すのは。
クリエイティヴィティとはなにか、つねに問うているつもりで、すぐに硬直して新鮮な驚きを失う。
そもそもプログレのどこにびっくりして聴き始めたのか、思い出してみる。
むろんたいがいは稚拙ゆえの驚きで、克服を積み重ねて今に至る。
Pink Floyd 'Breathe' のEm→Aのコード進行だけで感動してた自分を思い出して、今、同様にそのコード進行で感動しよう、というのではない。
そのコード進行そのものが重要なのではなく、それが当時の私にとって目覚ましかった、それを聴く以前と以後とで、私の世界が変わった、という事実が重要で、そういう変革は、今の私にとっては何がそれに相当するのか、問う、ということ。
こどもの頃は、ほんのひとかけらの音から、自前のイマジネイションで桃源郷を開く事が出来た。
自分の中に埋まってる桃源郷を喚び醒ますきっかけとしてのプログレ視聴。
例えば King Crimson 'The Devil's Triangle' 終わり間際の、メロトロンのフルートの音色による、ほんの数秒間のグリッサンドの連なり、破壊と混沌の果てに浮かび上がるそれ、だけからでも。
いっぽうで、実際の形として、十全に延べ広げられ、完成された作品を求めもした。
作り手としての自覚も芽生えていたから、その視点では、完成された作品よりも作るためのヒントを求めていて、むしろ示されたものが、断片的だったり、完璧じゃなかったりの方が、私だったらこうする、というモティヴェイションを生んだ。
いっぽう聴き手としては、やはりどうしても、とことん仕上げたものに出会いたかった。
私にとっての「懐かしさ」の根っこを探ると出て来るのが「絵因果経」。
たまたま子供時代に見たから現時点で振り返って懐かしいのか、当時なにか人が帰るべき本来の世界を感じてたのか。
そして「不思議の国のアリス」。
ジェネシスを好きになるには、「アリス」読者としての下地があったのかも。
おそらくジェネシスの歌詞に「アリス」からの直接の引用はないが、'I know what I like, and I like what I know;' と言われたら、どうしても 'A Mad Tea Party' の「I see what I eat と I eat what I see が同じということになってしまう」以下の件を思い出さずにいられない。
カリスマレーベル、マッドハッターだし。
Steve Hackett "Voyage Of The Acolyte(侍祭の旅)" を最初に聴いた時がっかりした。
これを許容できるか否かでその者のジェネシス理解度を判別するリトマス試験紙だと思った。
いま聴き直すと、アリだ。
誠実にすら聴こえる。
このアルバム、作品としての十全な展開であるより、部品の羅列という印象。
その印象は当時も今も変わらないが、そのことがマイナスだとは、いまは感じない。
だからここで問題にするのは、これを殊更に斥けることで、当時の私が、いったい何を守ろうとしてたのか、だ。
私はジェネシスの、どこに、何を、聴き取っていたのか、何を以て「ジェネシス的」と規定していたのか。
『侍祭の旅』にかかずらうことで、何を捕り逃すと危惧したのか。
リリースの経緯は、どうやら、"The Lamb Lies Down On Broadway" で自分のアイデアが殆ど採用されなかった→ソロアルバムとして吐き出した、ということらしい。
アイデア羅列作品になったのもむべなるかな。
その1つ前の "Selling England By The Pound" はハケット色が強いらしい。
ジェネシスの評価を決定づけるのに彼が大きく貢献したということだし、私がこの "Selling England" に魅了されたのは、ハケット要素に反応して、というのもあるんだろう。
でも、ここがまさに本稿のポイント。
私はジェネシスに、桃源郷の世界の十全な開陳を求めてた、ということだ。
要素が、トータルの世界構築のために有効に生かされ、そのことでその要素自体も輝いて見える、ということ。
私はプログレ用語の「シンフォ」がよく判らないが、これとは別の、語本来の意味での「シンフォニック」。
各部品と全体とが有機的に結びついて響きあうさま。
ジェネシスには、音楽が音楽そのものであること譲らず、飽くまで音楽の語法による「物語」(比喩的な意味での)をとことん展開しつつ、それと言葉による「物語」(普通の意味での)とが、奇跡的に寄り添い響き合う場であることを期待した。
とくにユーモアの要素は重要で、私はジェネシスにルイス・キャロルの後継としての任を負わせようとした。
クソ真面目な作家集団だったジェネシスにユーモアを持ち込んだのはフィル・コリンズだった。ただ彼自身のユーモアセンスは、気さくで素直なもので、これが、バンドとしての、シニカルでひねくれてて高尚で文学的で貴族的なユーモア発動の起爆剤になった、ということなんだろう。
『侍祭の旅』にユーモアは無い。
このアルバムは「参考資料『ジェネシス分解図』の1ページ」として見ればいい。
私がジェネシスに求めるものが何なのか、正確に、深く、見極めるまで、妥協しないこと。
『侍祭の旅』中にジェネシスで聴き覚えのある要素を見出せるからといって、理屈を逆転させて、これこそ「ジェネシス的」の正体、と短絡して納得しないこと。
自分がジェネシスのどこに感動していたのか、見誤らないこと。
そうやって、求めていたものを捕り逃さないこと。
私がこのアルバムをNG認定したのは、ラストの 'Shadows Of The Hierophant' の終わり方があれで、反感を覚えたまま聴き終えることになるから、というのが大きかった。
無意味にくどい反復、しかも情緒に訴える典型的「シンフォ」。
正規の11分半ヴァージョンでもうんざりしてたのに、CDにはボートラとして17分のextended playout version が入ってる。
今回初めて聴いた。
カットされた展開がどんなだったのか、期待しもしたが、反復が5分半延長されてただけだった!
セッションをどう終えたのか聴き届けるのは重要だ、とケツを待ったのだけど、こっちのヴァージョンも結局、フェイドアウトだった!
どこがplayoutだよ…
これを収録することを許容できるセンス。
「誠実」はやはり撤回する。
私の大好きな画家に ポオ エ ヤヨ さんという方がいらっしゃる。
もう4年近く前、吉岡孝悦というマリンバ奏者・作曲家のコンサートの前半が「音楽と絵画のコラボレーション」で、スライドで絵を映しつつ、それぞれの絵を題材にした曲を、マリンバで演奏していた。
ヤヨさんはこの時のお3方の画家のうちのお1人だった。
私はこの時の音楽に腹が立った。
曲だけ聴けば、普通に可愛い曲だった。
吉岡氏は、手持ちのコンヴェンションで間に合わせた、どれも同じような曲を、3等分に割り振ってるだけに見えた。
彼は、どこまで深く、ヤヨさんの絵を見たのか?
ヤヨさんの絵が響かせているものと呼応するものがなにも無かった。
ヤヨさんの絵の、光も影も幸せも悲しみも丹念に織り込んだ、繊細で、心の深層に触れてくるテクスチュアと色彩を、彼の大雑把で表層的で脳天気なファンタジーが、冒涜してる、としか思えなかった。
ヤヨさんご自身は、彼を、純粋に芸術家として、どう評価なさってたんだろう?
偉い音楽の先生だし、当日東京文化会館小ホールの客席はそれなりに埋まってたと記憶するし、ご自分の絵の理解者であるかどうかは措いて、ビジネスライクにお引き受けになったんじゃないか。
安直に短絡的にコラボレーションとか言うな。
アメブロで投稿時頂いたコメントへの返信として書いた記事:
補足的メモ: