「より快適な車内空間」ねえ……
地下鉄の音自体が耳を澄まして差異を聴き取るべき対象なんだが。
イーノの "Music For Airports" は、環境音と音楽とがお互いの成立を妨げない。クラシック音楽が環境音と対立しそれを排除するのと逆。
イーノ的発想での「環境音楽」ならまだアリではあるのだが、さらにいうと、環境音そのものが既に聴くべき対象であるのに、そこにさらに音楽を付け加える積極的意味を、私は見出せない。
マリーシェーファーなら「理想的なサウンドスケイプ」をデザインしたがるのかもだが、どっちみち、私の基本は「音楽はパーソナルのもの」なので、どんな種類の音楽にせよ、公共の場で押しつけられるのは「強迫」だ。地下鉄の音が理想的に心地良くは無いとしても、耳を澄ます訓練の場にはなる。
以前アメブロでケイジ「4'33"」について書いたことがあった。
この曲の解釈はいろいろあるんだろうけど、私が大事だと思ったのは、この曲の演奏においては「聴衆」の「場」へのコミットメントが濃密になる、「場」の成立についての責任が重くなる、ということだった。
「音の出る音楽」の演奏会でなら、聴衆は、場の成立を他に任せて、惰眠を貪ることも、夜ご飯の献立を思い巡らすことも出来る。
「4'33"」にあっては、集中力を以て積極的に「沈黙」の成立に協力せねばならないし、物音をたてればそれは「聴かれる対象」になってしまう。
あと、この曲の意義に「沈黙≒静寂の中で聴こえてくる物音に耳を澄ます」ということがあるのだとしたら、その物音の一環として、演奏者がピアノで音を出す、ということも、もしかしたらあり得るかも知れない。
この曲の演奏スタイルにはいくつかある。
《ストップウォッチを用意して4分33秒測る、そのあいだ黙ってピアノの前に座る》
とか。
《且つ、そうするあいだ鍵盤蓋を閉じる》
とか。
《まさにピアノに挑みかかる体勢のまま4分33秒動きを止める》
とか。
この曲の演奏スタイルのひとつとして、
というのは有り得ないだろうか?
メタに、「これは『沈黙の中で聴こえてきた物音』としてのピアノの音です」ということを示せさえすれば。
地下鉄車内の「クラシック音楽」をも、物音の一環として聴ければよいが、クラシック音楽は「作者」の「意図」で塗り固められたものだから、聴き手がそこまで達観するのは難しい。