クラシック好きな方、プログレ好きな方でも、同じ比重でニューエイジをお聴きになる方はいらっしゃる。
彼らと私の価値観の違いはどこから来るのか?と問うて、ふと「叔母のせいなんじゃないか?」と思う。
私が彼女と直接、音楽について語ったことは、じつはあまり多くない。
でもなにげに、私の価値観の醸成に、ポイントポイントで影響を投げてる。
というか最近久し振りに電話でやり取りして、彼女から新たなネタを仕込んだのだった。
「宗次郎=菅義偉説」。
『NHK特集*1・シルクロード』の喜多郎にうんざりして、「とにかく喜多郎でさえなければ誰でもいい」とまでに心削られていた彼女は、『シルクロード』が終わって『大黄河』が始まること、喜多郎が外れ、代って宗次郎なる人物が音楽を担当すること、を知って、救われた、と思ったのだった。
ところが蓋を開けてみたら、題材・映像からの乖離・身勝手は見事に喜多郎から受け継ぎ、かつ作曲レヴェルは「これなら前任者のがマシ」だった、と。
オカリナ奏者といえばわたし的にはまず本谷美加子。というか、『トゥトゥアンサンブル』の音楽の妖精、ララ。
以前も書いたことだけど、再掲。
『トゥトゥアンサンブル』は、音楽を音楽そのものとして理解させるスタンスじゃなかった。
「音楽の森」のセットは美術として美しかったし、
リコーダーの神さまの樹「トゥトゥトゥリー」が聳えてたり、音楽の妖精「ララ」がいたり、という設定と相俟って、
森の奥深さと神秘を感じさせたし、ぶっちゃけ私は魅了されてたけど。
そういう付随する道具立てで子どもの関心を引き付けることは、音楽理解の邪魔でしかない。
音楽そのものが内に有つ魅力をどう判らせるか、就中どう「体感」させるか、について、Eテレで唯一正しかったのは、野村誠の『あいのて』。
子どもが自分の耳で音楽を「発見」するように仕向けてた。
『トゥトゥアンサンブル』も、「教則」の狭さを脱しようとしたんだろう。でも却って音楽から逸れた。『あいのて』は、教則によって見えなくなる音楽の「本来」を探り当ててた。
『トゥトゥアンサンブル』のセットに惹かれてた、というのはつまり、手づくり感、アナログ感が好き、ということだった。ヴァーチャルスタジオに居心地の悪さを覚える体質だった。
過去記事では触れなかったけど、大物のプロの演奏家をゲストとして呼んでクラシック曲を演奏してもらう、という場面が多かったことについては、どう評価すべきだっただろう? 真っ当な演奏にありつけることは良いことだけど、視聴者の子どもにとって自分から隔絶した世界だし「受け身の鑑賞」であること、については。
黒坂黒太郎の素朴は大いに価値があるんだけど、ある時ラジオ第1で彼のフォーレ「シシリエンヌ」が掛かるのを聴いて、待て、とは思った。フォーレの音楽はクロマティックが命だ。黒坂の素朴は「平均律じゃなさ」によって齎されてるところがあって、これ自体はもちろん良いんだけど、これでフォーレをやっちゃいけない。
黒坂の楽器「コカリナ」は、木製のオカリナ。黒坂の命名で、もとは「『桜の木のオカリナ』と呼ばれた、東欧ハンガリーの露店で売られていた木の笛」、これに改良を重ねたものらしい。
むろんもとの楽器からすれば遥かに、音程や音色が改良され安定してるんだろうけど、フォーレは、待て。
ラジオで、番組の合間、暗転の間繋ぎ的に曲を掛けるのを、私は「アール・クルー枠」と呼んでいる。
中1の頃、文化祭準備の折、先輩のどなたかの持ち物だったのか、オカリナに触れた。
ワン・ノートを4つ、ベンド・ダウンを掛けて、フクロウの声みたいに
ホウ、ホウ、ホウ、ホウ、
と吹いてみた。
それは私には、Pink Floyd 'Echoes' の 1'55" ~ 2'06"、2'42" ~ 2'54" を長調のドミナントにしたみたいなアレンジを伴って聴こえていた。レスリー・スピーカを通したピアノの音色による2分音符の和音の刻み。ドラムの、タム回し。
この4音を、その場にいた誰かに「ほら、すごいでしょ」と示したんだったかどうかは憶えてないけど、どうやら私がその音の中に聴き取ってることは、周囲の誰とも共有できない、彼女らの耳にはただの貧しいオカリナの4音以外のものには聴こえない、と気付いて、いまさらながら愕然として、歯痒くて、悲しかった。
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