もやもや

(2015年12月10日、記)

 

↓の記事 

アメブロに投稿時、頂いたコメントへの返信として。

 

 

目の前にもやもやと漂って、私を陶然とさせて、これを「表現」したい、と切望させるもの。

これを具現させるには、音楽は音楽の、絵は絵の、詩は詩の、固有の手続きを厳密に踏まねばならない。

 

曲と絵との間にインタフェイスは存在しない。

曲を絵に、絵を曲に、置き換えようとしてはならないし、出来ない。

が、拠って来たるおおもとのもやもやは同じものなのかも知れない。

 

 

ある方が、TVで、細野晴臣が弁天さまに曲を奉納するシーンを見て、怪訝に思ったそうだ。

神さまがヒトの作った音楽なんか聴いて、喜ぶんだろうか?

音楽は、神さまからヒトに下されるものであって、ヒトから神さまに差し上げるものではないのではないか?

続けて、思い直したそうだ。神さまは、自分が下したインスピレイションを、ヒトが躍起になって、ヒトのやり方で、ああでもないこうでもないと、ヒトの料簡の理解可能な形に「翻訳」しようと苦心するのを見て、カワイイ、と思うのだ、と。

慈悲と言ってもいい。

 

 

もやもやを、もやもやのままに具現させることは、ヒトには出来ない。

曲は、神由来の出自を持つけれども、それとは別レヴェルの、ヒトの料簡に属するオブジェ、ガジェット、抜け殻、と諦めなければならない。

いたずらに直接性・同一性に至ろうとすること、神から音楽が齎された道筋を逆にたどって、音楽で神秘を表現することを企むことは、不毛に終わるばかりか、ヒトを、神秘と似て非なるものにミスリードして、有害だ。

 

 

私が、こどもの時の、私を作曲に導いた、懐かしい音楽の「原型」を思い出そうとする時、それは決して「うた」や「メロディ」の形を取らない。

敢えて言えば「音色」「オーケストレイション」「エフェクト」に近いもの。音ですらないかも。

こどもは自分の中に起きている大事件を表現するスキルをもたないから、仕方なく、歌ったり、鍵盤の上で指を走らせてみたりするけど、代替アウトプットは、もとのもやもやとは似ても似つかず、観察者は、彼女の中で起こっていることを、何ひとつ察知できない。

そしてじつは、DAW なり 01/W なりのスキルを修めた大人にあっても事情は同じなのであって、「諦めること」からしか「表現」は可能にならないのである。