書いてない 自我

ブログ更新を滞らせてる自覚はあったけど、日付を見て、それが丸5日間なのを知り、驚く。

書かない人、しんかい6501です。

まあ、ブッダもキリストもムハンマドソクラテス孔子も、書いてない。

 

書いてないといえばドン・ファンもか。

私はカスタネダを読む趣味は無いけど、講談社の、青木保監修『未知の次元』は読んだ。「トナール」と「ナワール」が出て来るやつ。

ドン・ファンとドン・ヘナロが、修業中メモを取ることをやめないカスタネダを嘲笑するシーンがあった。

次いで二見書房の1冊を読み始めたんだけど(カスタネダをたくさん出してるのはむしろ二見書房)、いきなり「動力装置」という訳語が出て来て、読む気を削がれた。推察するに、原語は power plant か plant of power で、講談社『未知の次元』で「力の植物」と訳されてるものだろう。

 

精神世界の本を読んだ時期があるのには、理由がある。

小学校低学年の頃の「ある体験」が一体何だったのか、説明してくれる本を求めたのだった。

自宅でひとり徒然なるまま、ふと「自分」という言葉を唱えながら自分の中へ降りてゆく。「自我」のありかた、認識のしかたが再検討される。「瞑想」みたいなもの、というべきか。

何故そんなことを始めたのか、きっかけは判らない。もしかすると、鏡に映る自分の顔を見るうち、セルフイメージと実際とのあいだに違和感が生じて、それが蟻の一穴になったのかも知れない。ないし「これだけ大勢のヒトがいるのに、私から見て『自分』1人だけが全く違う様式で存在すること(私の自我意識が私の知覚と結び付いていること、それ以外のヒトは全員外側からしか見えないこと)」への違和感というか。

どんどん降りて行って、最終的に、自分が自分として成立しない状態にまで達してしまった。根源的な恐怖体験。

「こういう自分」か「ああいう自分」か、という問題ではない。「私は自分をAとイメージしてたけど、じつはBだった」という問題ではない。AだろうがBだろうが「自分」というものが成り立たない、という問題。

これ以上行くと戻れなくなる!と慌てて現世に戻ってくる。

蓋をして、無かったことにした。その状態の存在を否定しないと、逆にこっちの「自分存在」が根本的に否定されてしまう。

何かの本で読んだ予備知識があってのことではなく、言葉としてではなく、状態そのものが「直接」、無防備な子供をいきなり、襲ってきた。

 

必死に否定しても度々その状態に襲われた時期が数年。

高学年の頃、抑圧に成功し、逆に進んでその状態に入ろうとしても入れなくなる。

 

入れなくなってみると、怖かったはずなのに、気になりだす。たしかに重大な体験だった。 

あれは一体なんだったのか。正確に思い出して、言語化することが出来ない。

忘れようとして、それが成功してしまったからだし、それ以前にそもそも、言葉は、対応する物事を持つから存在するのであって、あの、現実世界と全くレヴェルを異にする体験を説明する言葉は、この世には用意されていない。

 

なので比喩でしか語れない:

普段「自分」としてイメージして、リアルで確固たるものと思ってるもの。

私の意識が全面的に依拠してるし、私の意識のコントロール下に属してると思ってるもの。

私は自分をマテリアルな「PC本体」だと思ってたのに、そうではなく、PCが「仮に、刹那的に」算出する「データ」だった、「数」がたくさん集まったことによって現れる「効果」のようなものだった、しかもそのPCのユーザーは私自身ではない、なにか「神」みたいなもの、という感覚。

私は「主体」ではないし、生殺与奪に与らない、という。

今時点の、現世の私が、言葉を持たず徒にする「比喩」ですが。

 

こういう体験はどなたもなさるものでしょうか?

 

 

追記

オットー『聖なるもの』は読んでない。「ヌミノーゼ」という語は中村雄二郎「術語集」で知った。

ヌミノーゼ - Wikipedia

ここに挙がってるヌミノーゼ体験の特徴が、私の体験を言い当ててくれてると思えるが、オットーの論旨とは違うんだろうなあ。

「概念の把握が不可能で説明し難い」

「畏怖と魅惑という相反する感情を伴」う

私の場合は(さっき仮に「神」という言葉を使ったけど)絶対他者との遭遇とか宗教心とかより、「自我」の存立の問題なのだけど。

バーナデット・ロバーツ『自己喪失の体験』(Bernadette Roberts 'The Experience of No-Self: A Contemplative Journey'、雨宮一郎・志賀ミチ訳、紀伊國屋書店、1989年)は、私の体験とどうリンクするかは、はっきりしなかった。

更新滞らせの話だったのに、自我の話のが長くなってしまった。

 

追記的関連記事:

3段オチ

この記事

shinkai6501.hatenablog.com

が、3連構成で、第3連だけ日常なのは、つまり「3段オチ」なわけですが、伊良子清白「戲れに」の影響かも知れません。

 

 

       戲れに


わがいへ大地おほづち
くろみかどみたまひ
地震なゐをどりいうなれば
くだきたれとちよくあれど
われはきえずひとなれば

わがいへ大空おほぞら
しろ女王めぎみみたまひ
ほしまつりえんなれば
のぼきたれとちよくあれど
われはきえずひとなれば

わがいへ厨子ふるづし
とほ御祖みおやみたまひ
とこはなのたへなれば
けてきたれとのたまへど
われはきえずひとなれば

わがいへ厨内くりやうち
はたらつまをよびとめて
ゆふべまけをたづぬるに
このめるうをのありければ
われはきけりひとなれば

 

 

この詩を収める、清白が自ら編んだ唯一の詩集『孔雀船』の岩波文庫版が、完全な形で、青空文庫にあります:

伊良子清白 孔雀船

「戲れに」は最後から3篇目です。

 

こちらの御記事

blogs.yahoo.co.jp

に、

《「戯れに」は詩集でも詩人自身のカリカチュアを描いたユーモア詩として異色作》

とあります。

 

ついでに念の為、これ

shinkai6501.hatenablog.com

の1段落目は、『源氏物語』「須磨の秋」のパロディです。

《須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言

「関吹き越ゆる」

と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。》

ルマンドアイスおいしい

この記事で、ルマンドアイスにおいて、ルマンドとアイスとを

《分けること乃ち低エントロピーを貴ぶこと》

と書いたんだけど、これを完全に行うには、ルマンドとアイスとを別々に買ってきて別々に食べればいい。

 

ルマンドアイス」から「ルマンド」だけを峻別することを企図する結果、どうしても「アイス」が混ざる、そこに「美」がある。

ハナから混ぜることを企図して混ざるのとは違う美学。

 

またこの場合、必定、一口ごとに混ざる割合が変わる、それをその都度愛しむ、ことになる。

「理想の」混ざる割合を「一通り」決めてレシピ化することを「無粋」とする立場。

 

音程やタイミングの「ずれ」に美を見出すにしても、だからといってハナから「ずらす」のは、無粋であり、無意味である。

意識としては飽くまでぴったり合わせようとする結果「ずれる」。

 

打込みにおいては、音程やタイミングがぴったり合うのは当然なので、「ずれる」をシミュレイトして「ずらす」こともやる。

一般に「芸」とは、シミュレイションの無粋が粋を示唆する境地、自然っぽい人為、のことといえる。

「作者自身は無意識で、自然に任せる」が通用するのはサヴァン的天才だけで、一般に作者は自らの行いをエディット作業として意識的にコントロールせねばならない。自然=美が「現れる」ことがあるとしたら、コントロールの辛うじての結果としてであって、「現す」ことをしてはならないし、できない。