《分けること乃ち低エントロピーを貴ぶこと》
と書いたんだけど、これを完全に行うには、ルマンドとアイスとを別々に買ってきて別々に食べればいい。
①
「ルマンドアイス」から「ルマンド」だけを峻別することを企図する結果、どうしても「アイス」が混ざる、そこに「美」がある。
ハナから混ぜることを企図して混ざるのとは違う美学。
②
またこの場合、必定、一口ごとに混ざる割合が変わる、それをその都度愛しむ、ことになる。
「理想の」混ざる割合を「一通り」決めてレシピ化することを「無粋」とする立場。
③
音程やタイミングの「ずれ」に美を見出すにしても、だからといってハナから「ずらす」のは、無粋であり、無意味である。
意識としては飽くまでぴったり合わせようとする結果「ずれる」。
④
打込みにおいては、音程やタイミングがぴったり合うのは当然なので、「ずれる」をシミュレイトして「ずらす」こともやる。
一般に「芸」とは、シミュレイションの無粋が粋を示唆する境地、自然っぽい人為、のことといえる。
「作者自身は無意識で、自然に任せる」が通用するのはサヴァン的天才だけで、一般に作者は自らの行いをエディット作業として意識的にコントロールせねばならない。自然=美が「現れる」ことがあるとしたら、コントロールの辛うじての結果としてであって、「現す」ことをしてはならないし、できない。