長いつべをたくさん貼ってます。
Discus の 2nd. アルバム "...tot licht!"(2003年)から。
この曲ではそうでもないけど、このアルバム中の数か所、ガムランやケチャを、わりとそれと判るまんまの形で、取り入れてる。何でもありでいろんな要素がごちゃごちゃと入り組む中の一要素として、短めに、だけど*1。
Discus はインドネシアのバンドです。
ロック・バンドが自国の伝統音楽を要素として取り入れるという時、その意図の在り処は、いろんなケースがあるだろう。
① 地が素直に出ちゃう。コミュニティの音楽が身に付いてて、ロックやってる意識でロックやってても、自然と出ちゃう。
② ロックの側にいて、ロックの刷新の方法として意識的に、伝統音楽とぶつけてみる。または、伝統音楽の側にいて、伝統音楽の刷新の方法として意識的に、ロックとぶつけてみる。
③ もとから発想に境界線が無い。
④ ワールドワイドに売り出す時、余所者の視点を忖度して、エキゾティックなテイストとして、伝統音楽の要素を入れておく。
お薦め曲ではないけど、資料として貼ります。
イギリスのキーボード奏者・作曲家。
この曲は基本、モーダルで、おもに
ド - ミ - ファ - ソ - シ♭
の旋法に拠ってるけど、時々シが♮になる。
大まかにいうと、旋法で発想してる時はシ♭、ブリッジ的な箇所では和声的発想になって(ドへの導音たる)シ♮を使う、ということではあるんだろうけど、この
ド - ミ - ファ - ソ - シ♮
ってつまり疑似ぺログだ。
(1.5拍のパターンと3.5+4.5拍のパターンを重ねるとかのミニマル~ポリリズミックな構造の作り方も、ガムランを参照してると見える。)
この作曲の意図はどこにあるのか?
旋法を、インドネシアっぽいムードを得るために用いる、エキゾティシズム、だろうか?
あるいは、冒頭ライリーを思わせる箇所があることや、タイトルの 'rainbow' がライリーを連想させることと思い合わせると、思想含めた東洋への憧れだろうか?
まあ、そうでなくとも、モードの設定が、触媒、発想の契機になる、というのは一般にあるから、その一例かも知れない。そもそも、「ド - ミ - ファ - ソ - シ」と並べばすなわちインドネシア、という発想が記号的だ。そうではなく、純粋にモードを探求する過程で、音程をいろいろに試してみた結果、たまたまぺログに似てしまった、のかも知れない。
で、エキゾティシズムはまず以て、余所者の、聴く側の料簡だけど、これを忖度する、現地の側・やる側のエキゾティシズム、もあり得る。
にしても、たしかに、その土地に固有の旋法というのはあるわけだけど、旋法がその形に決まったのは「たまたま」であって、必然は何もないのではないか?とも思う。世界での似た旋法の分布を調べると、民族同士のつながりが見えてくるとか、文化の伝播を跡づけられるとか、民族学の対象にはなるだろうし、たまたま決まったものであっても、これがコミュニティで共有され代々受け継がれればそれは確実に「替えの利かない、大切なもの」だけど。
これは疑似スレンドロ。
この流れでこれを挙げないわけにゆかない。
作曲家 武島伸 氏は沖縄(宮古島でしたでしょうか? すみません記憶が曖昧です)のご出身で、氏のおっしゃってたこととして、
ご本人的には王道ポップスをやりたい、やってるんだけど、琉球音階を採用した曲を作ると、どうしてもそっちの方がウケてしまうディレンマ
というのがある。
'Blue Angel' という曲がいちばん知られてるようだけど、これも琉球音階に拠る。ただし、必ずしも「やまとんちゅーにとってのエキゾティシズムの対象」というに限らず、地元でも人気曲であるみたい。
ソロ・アルバム『うみにきけ』(1995年)でのヴァージョンは、バンド形態で、メンバーは NHK のディレクター連中で、ギターが小山哲朗氏、ベースが石原真氏だったりする。
そのヴァージョンの動画が無い。
↓は東京パフォーマンスドールのヴァージョン(1992年)。
前回、須磨邦雄 "Solosolo" を取り上げた。私、これは有(も)ってたくせに、じつは美狂乱をまだちゃんとは聴いてない。"Solosolo" は、某ユーロ・ロック専門 CD 店(目白の)の店内でたまたま掛かってて知ったのだった。即買いした。
同様に某ユーロ・ロック専門 CD 店(目白の)店頭で即買いした例として、そういえば Discus "...tot licht!" があるな、と思い出したのが、今記事を書き始めた動機です。
リリースが2003年と気付いて驚いた。私が買った(=某ユーロ・ロック専門 CD 店(目白の)で掛かってた)のはその数年後。
「辺境」という語を使う人多いなあ。プログレ者に。