Depeche Mode にこんな深い表現があったとは。
こちらの御記事で知った。
お貼りになってる曲のどれもが好きとはゆかないけど。
ただ、出だしの「インダストリアル」感で「おっ!」となるぶん、曲が進むにつれて「曲」っぽくなってゆくのを、「余計な成分」と感じてしまう。
0'54" 目で、それまで深いリヴァーブの奥の奥でむしろ効果音的だった「コード」を弾くパートが前面に出て来て、その後「コード進行」になってゆくと、白けてしまう私がいる。
いやこれ Depeche Mode なんだから。Cabaret Voltaire じゃないんだから。筋違いな期待なのは判ってるんだけど。
だいいち、2'02"~ 2'29" のコード進行は、コーラスの音形とともに、ほんとうにハッとする美しさだ。
なんしろ私は、コード進行というものを忌避する性向が強い。
ひとくちにコード進行といっても、良いコード進行と悪いコード進行があって、既存のコードを選んできて並べるとか、そのチェンジが小節単位であるとか、が私はダメなのだ。
響きを新たに発見してゆく、鍵盤をまさぐりながら響きをひとつひとつ「身分の耳の責任で」選んでゆく、そのプロセスが乃ちコードの「進行」である、というのは良い。
この曲も、好きなんだけど、1'15" 目に短調まる出しのコード進行が現れると、いやそういうの要らないから、と思ってしまう。
この曲のつべ、まえに探した時は英語ヴァージョンのしかも音質がいまいちクリアじゃない気がするやつしか見つからなかったのに、あるじゃないか。
ところが、その私が、これの 1'26"~ は OK なのだ。1小節単位のチェンジだし、典型的に白玉だし、なのに私はこれを「敢えてする《造形としての》白玉コード」と見做し、積極的説得力を認めてしまう。偏見だろうか?