聴いてない

10代の頃に聴いたものは、どこでどんな音が鳴ってるか克明に憶えてるし、脳内で完奏できる。

20分の 'Close To The Edge' や 'The Gates Of Delirium' を。

 

今新たに聴くものは、そういかない。むろん積極的に最大の集中力で聴くのだけど、ここ数年聴いたもので「そらんじる」までに親密になったものってほとんど無い。

断じて現在の音楽シーンが1970年代に較べて名曲に乏しいのではないし、また、私の「記銘力」が落ちたというだけでもなくて、作品への対峙のしかたが変わった。「かけがえのない唯一のものとして向き合ってる」か、それとも「知恵がついて、体系の中の位置付けで聴いてる」か。

 

作品「そのもの」を聴いてた。だから切実に親密なものになった。

Pink Floyd 'Breathe' のシンバルレガートやタム回しに、「それそのもの」、体系の中に位置づけられ他のものとの比較で評価されるのではない「かけがえのないもの」として出会ってるために、その美しさを「疑う余地がない」。

もし出会いのタイミングがずれ込んでたら、「Mason なんて Bruford に較べればフレーズの作り込みに意欲が無い、プログレの仕事をしてない」という評価が先に来て、本当の意味で「出会う」本当の意味で「聴く」ことにならなかった筈。

 

昔は情報が限られて、知ってる曲数が少ないことが幸いして、1曲にかかずらう時間が長かった、というのが最大の理由かもだけど。暇だったし。

聴き方の変化は、寂しく思うべきなばかりではなくて、偏った個々の思い入れを脱して公正に評価できるようになった、ともいえるのだけど。

 

 

これは全く私の言い方の責任なのだけど、「高く評価しない」を意味するために「聴いてない」と言うことがある。

「アルバムひととおりは聴いたけどそれ以上深く聴く気にならなかった」「数曲聴いてみたけどそれ以上掘る気が起きなかった」から「聴いてない」。

 

「聴いた」と言い切ることは重いことで、不用意に口に出来ない。

「聴いたの? じゃあ第17小節のピアノ・パートとフルート・パートのハモリについて、音量バランスは妥当だと思う?」と訊かれて、即答できるようでなければ「聴いた」と言ってはいけない

なので私は

Kate Bush は "The Dreaming" 以降しか聴いてない」

と言ったのだ。すると

「"Never For Ever" もオススメですよ。アヴァンギャルドとポップのバランスが」

とご親切なアドヴァイスを頂いたのだ。

むろん、もう一度いうと、責任はあくまで私の物言いにあるのだ。

*1

*1:空耳アワー」での空耳作品をつべにお上げになって、空耳のフレーズを動画のタイトルになさってる場合、その文言を改変なさってるケースが非常に多い。それが作品への冒涜だという認識をおもちじゃないのか、あるいは何か積極的な理由があってのことなのだろうか?