聴きの現場

曲を聴くという行為が厄介なのは、大きく分けて少なくとも2つの別々の聴き方が同時に進行するから。

 

まず、曲を理解するための「聴く」が進行してる。曲に即して聴く。作曲者の意図に沿おうとするにしても、鳴ってる音を鳴ってるままに聴こうとするにしても。

注意力を維持する。途中でどうしても気が散ったりぼんやりしたりしてこれが途切れる。10秒くらい戻って聴き直す。そうやって何とか曲終わりに到達する。

5分の曲を聴き通すのに8分掛かるコース。

鳴ってる出来事をまずとにかく「全部、ひとつも漏らさず」聴かないことには話が始まらない。今現在の私の耳と意識の働きの、向きと、レンジと、感度に応じた範囲で。

作曲者への敬意を最優先するし、場合によって事後感想を述べることを目論んでたりもする。

曲に従順という意味で、パッシヴ。

 

次に、そもそも私は私自身が音楽について考え、実作するためのヒントを求めて曲を聴く、ということがある。アクティヴ。

「気が散る」というのは雑念に気を取られることだけど、これの中には、積極的能動的創造的な「雑念」もある。アイデアが浮かぶせいで「気が散る」。

これは聴き通すことのためには支障になる。

良い曲は触発する。創造的な曲は聴き手の創造性をアクティヴにする。今ここで浮かんだアイデアについて今ここで検討しないと、取り逃す。永久に失ってしまう。「曲理解」を中断し「作曲者への敬意」を棚上げしてでも。5分の曲を聴くのに11分掛かるコース。

 

眠りに入る瞬間、その前後、連想が融通無碍になってる。

考え事をしながらうとうとし、ハッと目覚めた時、最初の話題から遠く隔たったところに来ている。うとうとしながらの思考は理路があった筈なのに、直後に目覚めてそのプロセスを辿ろうとしても辿れない。

私は曲を聴く時いつも「曲そのもの」を聴いてる。ところが聴きながらうとうとする。その間引き続き曲そのものを聴いてるつもりでいる。ハッと醒めて気付くと、曲そのものだと思ってた対象がいつの間にか曲と直接関わりがあるとは見えないトピックなりイメージなりに変わってて、これを聴いてる。

これは創造性として積極的に評価すべきだろうか?