ブラボーおやじ

ブラボーおやじを殲滅せねばならないのは、彼らが「聴く」ということをしていないから。

「ブラボー!」と叫ぶことが目的になってる、ということは、そのタイミングの少し前で準備に入ってる、ということは、音楽を聴いてない。

演奏への反応としての「ブラボー!」は素晴らしい。でもブラボーおやじは演奏内容がどうであれ、どっちみち叫ぶのだ。彼らにとっては、演奏内容を「聴く必要が無い」。

ブラボーおやじと、演奏者とのあいだ、場とのあいだには、コミュニケイションが生じていない。音楽会なのに。

「ブラボー!」は演奏者への敬意の表現の筈だけど、ブラボーおやじの「ブラボー!」は、冒涜だ。聴かずにそうしてるんだから。

 

音楽というのは、最後のゲイトタイムを弾き終えて、楽器の振動が止まって、そこに掛かるホール・リヴァーブが減衰し終わって、完全な沈黙が訪れて、それが訪れたことを確認するための数秒と、そこに浸るための数秒、以上を経て初めて、終わるのだ。

その時点までは、聴き手は「聴く」ことに集中してる。その時点に至って初めて、聴き手は、拍手なり、歓声なりで、演奏に応えねば、と思い出す。

巨大な交響曲を、それが最後に沈黙に還ってゆく瞬間に立ち会うために、聴く。

演奏内容に感動しての「ブラボー!」は良いのだけど、その場合でもなお、「フライイング」は、場を共有する者の音楽体験を台無しにする。1時間なり掛けて体験してきたことの全部が、一瞬でチャラになる。

 

 

武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』(音楽之友社、1987年03月20日第1刷)の、サイモン・ラトルとの対談の章「作曲家の個性」に、ラトルのこういう発言がある:

「ときには、音楽に対して、沈黙をする、静かにするというのが、一番いい反応ではないかと思うんです。拍手もすばらしいけれど、拍手よりもっと別な方法で、人が反応してくれたらと思うことがあります。例えば急に鼻が光り出すとか、全員が発光してくるとか……(笑)」(p. 176)

これは、「音楽は、個人的な、そして普遍的なもの」という話、「音楽家の個性を超えた大きな沈黙の力」についての話の流れで出て来る。

カーネギー・ホールでの、ラトル指揮によるマーラー交響曲第10番」を聴いた際の体験を、武満が語る:

「その音楽が終わったときに、瞬間、何とも言えない巨大な沈黙があった。それは言葉であらわせないような、非常に大きな沈黙の力なんだけれど、そのときに僕は、稀な経験だったけれども、自分が音楽というものをやってて本当によかった、それに人間というものが、いかに小っぽけなものなのかということをひしひしと感じましたね。作曲家という存在は、ときどき傲慢になって、セルフィッシュであり過ぎるんだけれども、マーラーなど殊にそうですが、そして多分サイモンも、マーラーほどひずんではいないけれども、あなたもやはり自分の個性というものをはっきり持っていますね。聴いていた僕も、個性を持った存在なんだけれども、そういう個性も何も、だれが作曲したのか、また、だれが棒を振ったのか、だれが弾いていたのかというふうなことは、どうでもよかったというようなその大きな沈黙の前で、とても感動したんです。」(p. 175)