Ⅰ.
「私は『作曲』のみでロックを聴く癖がある。当ブログでも『作曲』のことしか書いてない。ある曲をディスると、コメントを頂戴して『是非〇〇のプレスで聴いてみて』と薦めて頂くことがある。
いったんは、筋違いなアドヴァイスだ、と思う。でも、実家にあった『国内盤』LP と YouTube でしか聴いたことがないということは、私はまだその曲の本当の姿を知らないということなのだ、と反省する。音楽の大事なものをきっと取りこぼしてる」
「そういう条件で違って聴こえる要素も『音楽内容』に違いない」
というのは言い換えると、「感動ありき」が正しい順序、ということ。
自分がどこで何に感動するか、実際に聴いてみるまでは判らない。
私の「作曲で聴く」聴き方も、そもそもは何かの「感動」に基づいてる筈。
「エピタフ」は作曲で聴けば不毛だ。メロトロンの「白玉で空間を埋める」使い方も、作曲で見れば間違いだ。
でも、御アドヴァイスに随って然るべきマトで聴けば、私は、そのまさにメロトロンが空間を埋める埋め方に、感動するかも知れない。そしたらその、自分が感動したという事実をもとに、聴き方論を立てればいい。
感動が聴き方に、聴き方が感動に還元され、絶えず循環するダイナミズムが、聴く現場だ。
Ⅱ.
「〇〇をお好きなら、この△△もお好きだと思います」という薦め方をよく目にする。この判断の根拠はどこにあるのか?
△△が〇〇に出音なりスタイルなりにおいて「似ている」から、ではあるまい。「ドビュッシーを好きだからカプレやブーランジェも好き」「ジェネシスを好きだからウォッチも好き」とはならない筈。
アーティストを好きになるポイントは、そのアーティストの「視点」だったりする。その視点を「発見」したことを好きなのであって、だから
「ドビュッシーの『自分の耳の責任で、広大無辺の音の世界から、音楽を自由に聴き取って来てよいのだと示したところ』をお好きなら、ヴァレーズもお好きだと思います」
「ジェネシスの『スタイルを、一貫させるのではなく、美意識というものを信用しこれに随って臨機応変に、選んでゆく姿勢』をお好きなら、ブリテンもお好きだと思います」
ならあり得る。
そもそも、ある曲を聴いて「感動が起きた」という事実があって、でももう一度同じ曲を聴いて同じ感動が起きるとは限らない。起きたとしてもそれは感動そのものではなく、さっきの感動を「なぞってる」。
「似た曲を聴いたら似た感動が起きる」ことを期待して臨むうちは、本物の感動はやって来ない。
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