いっぱんにどの作曲家についても、「〇〇のファン」という括りが価値の共有を保証しない。その作曲家の、どこを、どう、聴いてるのか、好きなのか。
ではあるけれども、ファンを自称する者同士の会話に最も齟齬を生じるのは、ドビュッシーだ。
それはドビュッシーの音楽の多義性に原因する。
ドビュッシーは従来「印象主義音楽の始祖」と呼ばれてきた。この呼称は、これを用いる者の意識の正確さ深さに応じて、まったく無意味ではない。
私が記憶してたのは、
〈「印象主義」という言葉がドビュッシーに対して使われた最初は、「ローマ大賞」に提出した『春』への教授陣の評*1
「氏の作曲に凡庸さはなくむしろ非常に独自だが、氏は氏の『印象主義』から身を守らねばならない」
だった〉
なのだが、そういう内容の記事をウェブ上に咄嗟に見つけられない。美術の場合と同様、音楽でも元来「印象主義」は貶し言葉だった、という記憶。
「印象主義音楽」を「『気分』や『雰囲気』を重視する音楽」と説明する記事があり、困ったもんだ。Wiki もそう。
「フランス音楽のエスプリ」と銘打つ CD のシリーズにドビュッシーが含まれてると腹が立つ。ドビュッシーが「フランス的」なのではなく、ぎゃくにドビュッシーの影響が絶大で、のちのフランス音楽が「ドビュッシー的」にならざるを得なかったのだ。そしてそれを「エスプリ」という音楽的には凡そ何も意味しない言葉で括る安直。
気分や雰囲気のためということは、ドビュッシーを倉本裕基と同じ聴き方で聴くということで、じっさいそういう聴き手は多いんだろう。
「印象主義」が音楽を語る用語であり得るとすれば、和声の、形式からの「自由」を語る場合だけだ。
曲を進行させる原理としての和声ではなく、カデンツの大枠から自由になった和声が、自律的に移ろい、瞬間瞬間の響きとして充実する。
ドビュッシーは思潮的には「象徴主義」だ、ともいわれる。「印象主義」呼ばわりしつつモネを連想してたように、「象徴主義」からルドンなりデルヴィルなりを思い併せ、深層心理的世界、官能に陶酔する。
Wiki の定義する「印象主義」と、これが表層的だとして、このイメージを克服すべく持ち出される「ドビュッシー象徴主義論」とは、雰囲気に浸る点で同じで、私はどちらにも与しない。
私のドビュッシーは「聴覚の自由の権化」としてのドビュッシーだ。音組織について、和声的にカデンツからの自由、ことによると音律的に平均律をも前提と見做してなかったと見える、自由。
パリ万博でジャワのガムランにびっくりし得る耳。
自分の耳の責任で、広大無辺の音の世界から、音楽を自由に聴き取って来てよいのだ、と示して見せたことが、彼が現代音楽を拓いたといわれる所以だ。
ドビュッシーを好きになったら、次に好きになるのは、カプレやブーランジェではなくヴァレーズ、の筈なのだ。
ドビュッシーを「どう聴くか」と「どの曲を好きか」とには相関がある。
「アラベスク」「月の光」「亜麻色の髪の乙女」が殊更有名曲になってることは、端的に不可解だ。
彼に付されたタグは何だっけ?
高校の社会科の教科書には「問答法」「無知の知」は出てきた気がする。で、プラトンの師で、西洋合理主義哲学の大元、みたいなイメージになってた記憶がある。
でも彼については「ダイモンの声」こそ最重要タグではないか?よく判らないけど。
ソクラテスの多義性から、のちの哲学者たちがそれぞれ何を継承し発展させるか(あるいは矮小化し消費しバズワード化するか)。
ドビュッシーもそういう存在だと思う。