写真と音楽

目にもとまらぬ早業で 投げる手裏剣あなたが恐い そっと瞳をそらした
と書いて、「はっとり」繋がりだ、と気付く。


さて、常日頃「音楽の自律」ということを言って、他の方法に置き換えること(音楽の方法で言ってることを絵画の方法でなぞるとか、詩の方法で言い直すとか、それぞれその逆とか)は出来ない、と言ってた。

ところが、このところ写真を撮ってみて、世界へのスタンスという点で、私は音楽においても写真においても同じことをやってる、と気付いた。
世界に向かって感覚を、開き、研ぎ澄ますこと。
ハッとしたもの(こと)しか撮らないこと。
もっぱら「造形」に関心があり、何かを「意味する」気が毛頭無いこと。

これは矛盾だろうか?

従前言ってたのは。
作曲については、例えばある曲が何かを題材に取ってる時、そのこと自体が曲の価値を高めも貶めもしない。曲は曲そのもので評価される。
聴き方については、私が斥けるのは、音楽の方法と無関係なところで、曲から何かの「イメージ」を思い浮かべて、それがあの絵画作品から受けるイメージと似てる、と指摘する、というやり方。「ドビュッシーの〇〇を聴いてルドンの〇〇を思い出しました」みたいな。そこにことさら価値を置くみたいな。

音楽にしろ、写真にしろ、方法に自覚的で純粋で徹底的であろうとすると、ぎゃくに「何をやってもその人」になる、ということがあるのかも知れない。
これはあくまで作る人内部での手続きの話で、アウトプットが表層において「似てくる」のではない。


専門分野についてはとことん先鋭的、それ以外についてはミーハー、というのは一般的なことだと思う。
作曲家が、作曲の仕事を続けながら、余技で写真を撮るという場合なら、作曲に対してと同じ先鋭さでとか、同じスタンスでとかにはならないと思う。
私は作曲をすっかりやめて、今はその代わりに写真を撮ってる、ということだと思う。