#録音文化の日

Kate Bush "The Dreaming"(1982年)から。

 

ふだん「耳を澄ます」と言い「分解能」と言う、それなのに私はオーディオが皆目判らない。

曲の正しい理解のための再生環境というのはある筈で、もっとこだわるべきと反省する。

 

いったい、耳をより澄ましてるのはどっちなのか?

耳の、音楽的な分解能とオーディオ的な分解能は別、という言い訳を考える。

しかし「作曲」の意味を問い詰めると、すなわち「耳を澄ますこと」になったりする。

「曲内容に興味があって、その正しい再現のために必要な音質は欲しいけど、音質そのものを関心の対象にはしない」は一見正しい。

狭義の「作曲」を聴くためにならそれでよいかも知れない。バッハはどんな音質で聴いてもバッハ、みたいな。

 

しかし作曲は、音符単位でのオペレーションに還元されるものではない。和声とか対位法とかと同様に、「音色~音質」にも構造があり、それは耳を澄ます対象であり、作曲の対象だ。

構造は、データに例えていうと「MIDI」レヴェルの「コンポジション」だけではなく「オーディオ」レヴェルの「音色~音質」にもあり、これも意識的に「作る」対象であり意識的に「聴く」対象なのだ。

 

すみません、今、同じ「オーディオ」という語で違う意味を意味してしまいました。「『MIDI』と別レヴェル」という意味での「オーディオ」は、「オーディオ・マニア」という時のオーディオとは違います。

そもそも「オーディオ」はいっぱんに「音声」のことだけど。

 

つべで、アナログ盤が音源のものは、音質の差が大きい。周波数特性的なこととか、分離とか。アナログ盤愛好家の方々は、それぞれ固有の音をお聴きになってるのだなと思う。盤自体も、どこの国のいつのプレスか、とか。再生装置的にも、カートリッジの選び方とか。

私は「作曲」のみでロックを聴く癖がある。当ブログでも「作曲」のことしか書いてない。

ある曲をディスると、コメントを頂戴して「是非〇〇のプレスで聴いてみて」と薦めて頂くことがある。

いったんは、筋違いなアドヴァイスだ、と思う。でも、実家にあった「国内盤」LP と YouTube でしか聴いたことがないということは、私はまだその曲の本当の姿を知らないということなのだ、と反省する。音楽の大事なものをきっと取りこぼしてる。

 

そういう条件で変わって聴こえる要素も「音楽内容」に違いない。

だいいち、オーディオについて「あるレヴェル以上の「特殊な」環境を前提としないと曲の本当の姿を知ったことにならない」というの以上に、作曲について「あるレヴェル以上の「特殊な」理解がないと曲を知ったことにならない」が不当でないといえるだろうか? 

 

ひとくちに録音が優れてるといっても、たぶん2つの方向がある。

① 「記録」としての録音に徹して楽器の音を正しく捉えるとか、最適のミックス・バランスを見つけて固定するとかの方向、例えばカーペンターズの録音の完璧さ。

② 単なる記録ではない積極的な「表現」としての録音技術、例えばビートルズ『サージェント・ペパーズ』。

私の常日頃推す White Noise "An Electric Storm"(1969年)は②。

芸能山城組『やまと幻唱』(1977年)ほかの諸作は、①を極限まで追求したものといえるだろうか。

Kate Bush "The Dreaming" は①②どっちとしても優れてる、ということになるのかな。

 

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