下書き放出(行動の強さすなわち思いの強さではない)

視点①

対バン合同の打ち上げで、バンマス(♂)が、運ばれてきた料理を前に、手を合わせて「いただきます」という。

対バンのとあるメンバーがそれを見てクスクスと笑い出す。

 

たぶんあちらからは、ロックにあるまじき「良い子ちゃん」に見えた。学校側の管理に自ら進んで嵌るような。「いただきます」=「しつけられてる」と思ってる。

 

たしかにロックすなわち権威を笑い飛ばすことだ。ただ、「いただきます」を嗤うのは間違ってる。「いただきます」はお行儀の言葉ではない。「いのち」への感謝の言葉だ。

生かされてあること、いのちへの想像力の欠如、「わたし」と「世界」との関係が見えないことこそ、ロックから最も遠い。

 

視点②

ロックは若者の音楽、子どもの思想。それは「やみくも」でなければならない。

ロックは批評精神だが、その矛先は何なのか。「世の中の不正義を糾す」とかもあるだろうけど、若者ってもっと鬱屈してる。ヒトとしてあることのどうしようもなく救われない不条理。

得体が知れないのに執拗な、生の不快感。ヒトであることへの根源的な居心地の悪さ。

「不正義を糾弾」といっても、ヒトである以上誰も「純粋批判者」ではあれない。自分を正義の側に置くことこそイデオロギーであり欺瞞である。

やみくもでなければならない。露悪的でなければならない。田山たかしは XTC フリークでなければならない。

「生かされてある」、摂理を離れてヒトは生きられない、といっても、だからこそ、私のいのちをカタに取って服従を迫る摂理を呪いもする。

音楽はいのちに至る方法ではなく、いたずらに音楽にかかずらうことはいのちへの反逆なのだと、よくよく自覚せねばならない。

対バンのメンバー氏の冷笑は、あるいはこの「自覚」に基づくものだったのかも知れない。

 

視点③

行動の強さすなわち思いの強さではない。

私はサヨクの立場を取る。でも、ヒトが本来そういうものだからではない。放っておくとヒトはプロパガンダに流されてしまうものだから、それへの抵抗は全力にならざるを得ないのだ。

デマの流布はたやすく、速く、規模が大きい。その修正は手間が掛かり、効果が小さい。