小節数が半端だったり、小節内の拍数が半端だったりする時、半端であること自体に価値があるのではない。
半端だけど、表現の真実の要請からそうならざるを得ない、と確信させられ納得させられる時、「おっ!」と思うのだ。
プログレは「変であること」を競うものではない。「複雑」を競うものではない。
セオリーから外れてるから価値があるのではない。もっと根源のセオリー、平たくいってインスピレイションに拠ってるから、動かせない造形だから、価値がある。
「作曲方法教えます」が矛盾なのは、作曲方法を探り当てることがすなわち作曲することだからだ。方法に沿わせることではなく。基本、1つの作曲方法では1曲しか作れない。
もちろん、「ヒトは自分に飽き足らなくて手足を歪めてみる*1」のだ。これには意義がある。種としてのヒトのフレキシビリティ確保のために、この「いたずらなひねくれ」は備わっている。でもこれは自然淘汰に委ねる前提のものだ。個人がいたずらにひねくれる「機会」は損なわれてはならない。ヒト種の未来のために。でも結果生まれたものが全部尊重されねばならないのではなく、ぎゃくにそのうちの99.9%は「死ぬために生まれてくる」のである。
最近ある方が御ブログで TOTO について連投なさってた。
私は TOTO を意識的に聴いたことがなかった。思いの外、インスピレイションに与る音楽で、驚いた。
この曲(1979年)の Aメロで、付点4分音符で切り込んでくるコードの連鎖(0'45"、0'54"、&c.)、そのせいで小節数が半端になってる造形を、私は目醒ましいインスピレイションによるものと見做す。衒奇で作れるものではない。TOTO をプログレ認定する根拠だと思った。産業ロック呼ばわりは不当だ。
ただ、あとで気付いたんだけど、この着想、Pan のこの曲 (1970年)
の 0'22"、0'31"、&c. という先例があるのだった。
叔母の口癖のひとつに
「難儀ない」
がある。ワンノートだけどメロみたいなそのシュプレヒシュティンメが、TOTO '99'(1979年)の歌い出しだったのだと、今回御ブログで気付かされた。
このメロも、Genesis 'I Know What I Like (In Your Wardrobe)'(1973年)の2コーラス目の歌い出し
Sunday night,
という先例がある。