この曲は本来歌物で、0'16"~ がヴァースなんだけど、私が気になってるのは、なぜここでパーカス・パートが「身も蓋もない8分音符での」刻みをやってるのか、ということ。
たしかに音色的な面白みはある*1。でもそれも、刻みがイーヴンで単調であることの音色による粉飾、と聴こえてしまう。
ここをこうしたことに、もし何か積極的な判断があるとしたら、それは、歌メロの符割が惹き起こす問題を解決するため、なのではないか?
採譜すると、こうだろうか:
2小節目から3小節目にかけてのタイ、3小節目1拍目の3連符。
もしこのメロをアカペラで示したら、聴き手的には、この符割が見えない。
だからパーカス・パートで基本ビートを明示する必要があった、のではないか。
一般に、符割をどんなに工夫して入り組ませても、それはイーヴンのビートを基準にしての入り組みであって、どこをどう工夫してるのか判るように提示するためには、基本ビートを同時に鳴らさねばならない。
作曲者的には、曲開始のカウントとか、基本ビートを通奏するパートとかの、補助線というか座標軸というか、による注釈無しに、フレーズの符割そのものでもって自明であらしめたいし、それが実現出来てないのならそれは作曲の失敗だ、と思う。
その符割、その音楽は、この世に存在するといえるのか?
作曲者の頭の中には明確に存在する、符割。譜面に書き表すことも出来る。でも音楽は実際に音として鳴らされて初めて音楽なのだ。ところが実際に鳴らされると、それは基本ビートの注釈を外されることだから、厳密な符割が自由符割になってしまう。
つまりは聴き手と共有出来ない。
武満徹《夢の時》(日本ショット)、p. 20 のホルンのパート。ここの拍子は、6/♪、9/♪。
好きな箇所なんだけど、 CD で音でだけ聴いてると、タイの頻出によるシンコペイションが見えない。どこが小節線なのかも、聴いて判ることじゃない。
譜面を見るまでは判らない。演奏会で指揮者の身振りを見ながら聴けば、あるいは判るかも知れない。
鳴ってるそのものだけが音楽である。譜面や、指揮者の身振りは、音楽そのものへの「注釈」だ。聴き手にとってはそうだし、ここでいう聴き手とは、作曲者の頭の中以外の全世界のことだ。注釈無しには判らない作曲って、作曲として成功してるのか?