テンポ パーソナル 責任

2年前の今日の記事。

「(打込みのエディットの)作業してる時は感覚が鋭くなってる時だから落ち着いてみると自分の設定したテンポに自分がついて行けなく」

「テンポは、打込み作業においても、どこまでも身体に属するもので、したがってパーソナルなもの」「テンポについて行けなくなるとは具体的には、リズム=符割を解析できなくなって、グルーヴを失うこと」

 

ここで「パーソナル」の語を使ってる理由を、少し丁寧に書く必要を感じた。というか今自分で読み直して咄嗟に意味が取れなかった。

つまり「自分で取れないテンポは採用しない」ということです。テンポは速ければ速いほどかっこいいけど、これを理由に BPM「150」にはしない。

記事中「132」とか書いてるけど、他人様がお聴きになって「とれえわ!」なテンポの筈。でもそのトロさが私のテンポ、私自身、私の身体なのだから、引き受ける。自分の音楽に自分で責任を持つということです。同じ段落で「そのレゾリューションを細かく保つことを心掛けてる」といってる、そのうえで。

 

もっと正確にいうと、「ここまでは私の責任、ここから先は私の手に負えない領域」という線引きを明確にする、ということだろうか。まあものすごく当たり前なことだけど。

もちろんここでいう責任というのは「作曲」についてのもので、「演奏」については私は自分で責任を引き受けられないからこそ打込みにお任せしてる。「自分の作曲を自分の頭と感覚が理解してる」という意味での責任です。

で、これはもちろんテンポに限らず、打込み作業一般について同じ態度でいる。

和声についても、例えば複数の声部を機械的に重ねて和声を偶然に得る、ということが打込みではやれてしまう。それは面白がってよいし、可能性はそこにこそあったりする。でも偶然に生じたものごとのうちの「どこが」面白いのかを私自身が見極め選び取り、「なぜ、どのように」面白いのかを私自身が納得したものだけを採用する、ということが必要だし、その手順は「作曲」と呼んでよいのだと思う。

後半は考えながら書いたので未整理です。