他人様の曲の感想を述べるのに、コード名を使うと、まるで私がコード理論ありきでこれに曲を当て嵌めてるみたいに見えてしまう。
私は、ひたすら「聴く」ことが最初に来て、感じたことを言葉に落とすことだけやってる、のだけど。
感じたことを最も正確に言い表すのに、コード名を使うのが有効な場合がある、という順序。
コードについての御記事で、その実作例として自作をお貼りになってたから、必然そういう感想の述べ方になった、のではある。
そもそも私はコード理論を学んだことが無い。コード名すらろくに知らない。感想差し上げた曲は「m7-5(マイナーセヴン・フラット・ファイヴ)」をお使いになっての作例だったのだけど、このコード名とその構成音を、御記事で初めてご教示頂いた。
私がポピュラー音楽のコード理論に罔いのは、クラシックの「和声」は少し*1齧ってて、その発想に囚われてるから。
SATB の4声が横に流れて和声を作る。「属七のシ、ファがⅠの和音のド、ミに進む」とか「連続完全5度は禁止」とかの発想であって、例えば「ギターで G7 の構えを作ってコード・ストロークする、その次に C の構えを持ってくる」とか、「F の構えをそのまま2フレットスライドさせて G」というのとは違う。
これがあるので、さっき「ひたすら『聴く』」と言いはしたけど、その聴き方がクラシックの和声に縛られてる、ということは確実にある。
ハ長調の曲において C→A♭の進行は「長3度下に跳躍する」みたいでもあるけど、c を固定して e、g をそれぞれ半音下、半音上の es、as に進めた、と捉えれば「滑らかに順次進行」してる。
私は、感想が、コード理論の用語でやろうと努力しつつ、限界がきて、「和声」用語とのピジンになる。
「ディミニッシュ」というと機能的に融通無碍で、使い勝手もいいけど、「和声」では T、S、D の流れで解釈しようとするために「短調のⅤ9 の和音の根音抜き」みたいな面倒な言い方・捉え方にならざるを得ない。
augment [ɔːgmént] が(「オーグメント」ではなく)「オーギュメント」と呼びならわされてるのは、argument [ɑ́ːgjumənt] の影響だろうか?